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阿仁鉱山 詳細
鉱山名 | 阿仁鉱山 |
解説文 |
『阿仁鉱山の通史』 ●阿仁地域の二つの銀山(13〜14世紀) 13〜14世紀頃の阿仁地域では、阿仁川を挟んで、西に湯口内沢の銀山、東に板木沢の銀山が開発されていました。戦国時代には、それぞれの銀山の領主が異なり、この地域は阿仁川の両岸で絶えず緊張状態にありました。 ●慶長十九年の七十枚金山の発見(1614年) 戦乱期が終わり、秋田氏に代わって佐竹氏が秋田に入部(1602年)すると、阿仁地域も落ち着き、慶長十九年には、当地の山師によって、九両山の近くに高品位な金山が発見されました。この金山は、板木沢銀山の山師13名に経営が任され、藩には、運上金として一ヶ月に70枚の大判が支払われました。この金山は、契約内容の凄さから、七十枚金山と言われています。この金山開発には、各地から多くの鉱夫が集まったため、秋田藩では新たに水無村の一部を町割りして、銀山町を作りました。銀山町には、鉱夫長屋だけでなく、金・銀の精錬施設も作られ、銀山町は鉱山内部の町として発展しました。開発当初、銀山町は1万人規模の町だったと言われていますが、金の生産は数年で激減し、山師たちは阿仁での銀山開発に戻って行きました。 ●極印沢での銅の開発(1637年) 江戸幕府は、外国との交易品を、銀に代わって銅で行うことにし、全国で銅の開発を奨励しました。この時期、大阪の大商人たちは、山師を雇って、各地の鉱山で銅の探査を行わせました。阿仁にも、多くの商家の手代(山師)がやってきており、寛永14年(1637年)には北国屋の高岡八右衛門が、大沢の支流の極印沢に大規模な銅鉱床を発見しました。ここが、阿仁の銅山の始まりですが、阿仁鉱山が閉山するときまで、この極印沢坑は続きました。その後も阿仁では、大坂屋や泉屋など、大坂の大商家が銅山の開発を続け、阿仁六ヶ山と呼ばれるように、6つの大きな鉱山集落(小沢、真木沢、三枚、一ノ又、ニノ又、萱草)を持つ大規模な鉱山地域に発達していきました。享保元年(1716年)には、阿仁鉱山に対する幕府からの銅の割付高(170万斤、約1,000トン)が日本一となるなど、世界有数の銅山でした。 ●加護山精錬所の設立(1775年) 江戸幕府は、全国の銅山から粗銅を大阪の銅吹処(精錬所)に集めて精製し、この精銅を長崎での貿易の決済に使用していました。そのため、各藩では、銅の精製は許されず、粗銅(品位90%程度)しか生産できなかったため、銅の製品(貨幣)を製造できませんでした。また、阿仁の粗銅には、銀が0.1%程度含まれていましたが、精製設備がなかったため、この銀も回収できずにいました。秋田藩では、銅の吹分処(精錬所)の建設を何度も幕府に願い出ていましたが、ようやく安永4年(1775年)に許可され、二ツ井の加護山に精錬所を建設し、精銅と銀を製造することができるようになりました。この精錬所を請負ったのも、大坂で精錬所を営んでいた大坂屋でした。 二ツ井には、舟運で阿仁の粗銅と、銀の抽出に必要な太良の鉛が運ばれ、一大集積地になって行きました。このように、阿仁鉱山、加護山精錬所、太良鉱山など阿仁鉱山圏全体を、長らく実質的に経営したのは、住友(泉屋)と並ぶ豪商の大坂屋でしたが、明治になって廃業したので、江戸期の阿仁鉱山関連の資料が散逸したようです。 なお、この精錬所からは、幕末に多くの地方貨幣や贋金が、幕府の目を盗んで多く生産され、藩の財源になっていました。それらの貨幣も、多くが今に残っています。 ●メッゲルによる阿仁鉱山の近代化(1880年) 江戸時代の後期には、阿仁鉱山の銅の生産量は落ち込んでおり、年に約500トン程度でした。明治政府は、阿仁鉱山を近代化(西洋化)し、生産量を増大させようと試みました。明治13年(1880年)には、ドイツから鉱山技師のメッゲルらを阿仁に呼び寄せ、阿仁鉱山の近代化を計画させました。メッゲルの計画は、阿仁の山々に点在する鉱山のうち、規模の大きい小沢、三枚、真木沢の3鉱山を地下のトンネルで繋ぎ、軌道で結ぶことで運搬を効率化し、鉱石を小沢鉱山に集約することでした。この計画によって、選鉱場と製錬所を一ヶ所に集約することが可能となりました。明治17年には、三枚と小沢を繋ぐトンネルと、水無村に近代製錬所が完成し、近代化した阿仁鉱山がスタートしました。この翌年の明治18年には、阿仁鉱山は古河市兵衛に払い下げられ、古河鉱業の経営となりました。 なお、近代化とともに、阿仁各地の鉱山集落は急激に衰退し、消滅していきました。 ●衰退と二十四孝金山の発見(1933年) 近代した阿仁鉱山は、銅が年々増産されていき、明治の末年頃(1912年)には、幕末の3倍の生産量(1,500トン)に達しました。しかし、この頃をピークとして、銅は急激に減産して行き、昭和6年(1931年)には休山に追い込まれました。衰退の主要な原因は、アメリカやオーストラリアで大規模銅山の開発が続き、大量の銅が産出されたため、銅価格が低下したことです。このため、新たな開発への投資は出来ず、鉱山は先細っていきました。ところが、昭和8年(1933年)に、九両山の近くで金山が再び発見され、二十四孝山として開発されると、この金の収益によって、銅の開発も可能となり、再び阿仁鉱山は操業を始めることが出来るようになりました。 ●阿仁鉱山の閉山(1978年) 1960年代になると、世界の大手資本が銅の開発を行うようになり、さらに銅価格は低迷し、遂に、1978年に阿仁鉱山は閉山しました。最後まで操業した坑口は、極印沢坑で、初めて阿仁で銅が発見され開発された場所でした。この場所の近くには、今でも極印沢稲荷神社が建っています。 |
現住所 | 秋田県北秋田市 |
阿仁鉱山に属する鉱山の一覧
1 萱草鉱山

2 市之又鉱山

3 小澤鉱山

4 長木澤鉱山

5 二之又鉱山

6 眞木澤鉱山

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