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院内銀山 詳細
鉱山名 | 院内銀山 |
解説文 |
院 内 銀 山 史
〇院内銀山の盛衰 鉱山は開発当時の「盛り山」から、必ず生産量は衰退していきますが、大きな土木工事を進めることで、これまで採掘できなかった鉱脈が採掘できるようになり、再び生産量が増して「直り山」(なおりやま)の時期を迎えることができます。大きく直ることを「大直り」(おおなおり)と呼び、鉱山ではとても良い縁起言葉となっています。院内銀山は、開発当初の「盛り山」と2度の「直り山」を経験した稀有な鉱山です。このような院内銀山の盛衰の時期をまとめると、次のようです。
開発初期: 慶長17年(1612)、梅津政景が銀山奉行を務めた時期 天保の盛山: 天保年間(1831-1845)、「門屋養安日記」の頃 近代化改革: 明治14年(1881)、明治天皇御巡幸の年 閉山: 昭和29年(1954)
関ヶ原の合戦ののち、佐竹家が常陸から秋田に転封になったのは、慶長7年(1602)で、その初期の頃から、院内銀山に銀山奉行を置き、鉱山の経営にあたらせていました。秋田藩にとって、院内銀山は最も重要な鉱山でした。その後、慶長17年に梅津政景が院内銀山奉行となった頃は、江戸幕府に銀200貫(750kg)を運上していました。幕府への運上金は、生産量の1割程度と考えられますので、この頃は、銀2,000貫(7.5ton)もの銀の生産高があったようです。院内銀山の坑内の骨格は、この頃に出来上がっています。今に残る大切坑(水抜き坑道)が完成したのは、宝永4年(1707)のことでした。しかし、銀の生産量は佐竹藩の開発から100年と経たずに激減し、停滞した鉱山になっていきました。 1785年に秋田藩9代藩主となった義和公は藩政改革を行う中で、藩内の各鉱山も改革していきました。院内銀山も鉱山改革によって1830年頃から銀の生産量が激増し、「天保の盛山」を迎えることになりました。「大直り」の盛況です。この改革のとき、阿仁鉱山から多くの鉱山技師が院内に入ってきました。医師で詳細な日記を書き残した門屋養安も阿仁鉱山から院内に移ってきた一人です。 天保の盛山のあとも減産しますが、その後、また明治政府による近代化政策による投資によって、院内銀山も三度、盛り(直り)を迎えます。この頃の記念として、明治14年(1881)の明治天皇の御巡幸がありました。これに先立ち、明治12年5月に阿仁鉱山の御雇外国人メッゲルは、東京から阿仁に向かう途中に院内銀山に立ち寄り、鉱山を見聞し政府に報告しています。その内容はドイツ語の論文として書かれましたが、秋田大学の川東雅樹先生に訳してもらい、日本語の論文「日本の鉱業と冶金業についての所感」として公開しました。この近代化改革による増産も長くは続かず、大正期には銀価格の暴落もあって衰退してしまいました。なんとか戦後まで続いた院内銀山も昭和29年(1954)に閉山となりました。 院内銀山では、このように350年ほどの間に三度の隆盛期を経験しましたので、それぞれの隆盛期の記録が残っており、それぞれの時期の研究もされてきました。これからは、これを一つの鉱山の歴史として見て、長い院内銀山史の流れの中で、今に残る鉱山史跡の意味を解読する必要があると思っています。
〇開発初期の頃 院内銀山初期の記録として重要なものは、「梅津政景日記」(1612~1633年)です。梅津政景は院内銀山奉行ののち、勘定奉行を経て家老職まで登り詰めた佐竹家の重臣ですが、生涯、藩内の鉱山行政を司る「惣山奉行」を勤めた、鉱山経営者でもありました。この日記は、院内銀山奉行に赴任するところから始まりますが、晩年の記述にまで、院内銀山の開発について書かれており、初期の院内銀山の発達史が詳細に描かれております。この日記は、渡部景一先生をはじめ、多くの方々が研究されて解説書が出版されていますが、院内銀山の技術史に絞った論考は少ない様です。政景は日記の中で、院内銀山における「塩屋平」「四百枚(都平)」「南沢」「千枚」の4つの水抜き坑の開発について書き残しています。これら水抜き坑は、坑内からの湧水を排出させるだけでなく、主要な運搬坑道(横坑)として機能させる重要な坑道でした。これら4つの水抜き坑は、その後、「大切坑」(水抜き坑)の開発によって全て連結され、院内銀山の基本骨格ができあがりました。 院内銀山にとって、最も重要で画期的な出来事は、この「大切坑」(1707年)の開発でした。大切坑は、銀山川の下流にある坑口から、銀山町まで約1.5kmの水抜き坑道として開発されましたが、今に残る佐渡金山の南沢疎水道(1696年、900m)に匹敵する大規模なものでした。この「大切坑」の完成を記念して書かれた絵図が、「羽州雄勝郡院内銀山惣絵図」(宝永4年(1707)、国文学研究資料館所蔵)です。現在、原図は公開されておらず、写本が見られるだけです。この絵図は、精緻な測量図となっており、初期の院内銀山の坑道構造が、極めて近代的な鉱山の構造になっていることがわかります。 さらに、秋田大学附属図書館が所蔵する「院内銀山ノ図」(江戸期)には、銀山川下流の大切坑口から、院内銀山の本鍎(千枚鋪)まで続く、九百四間(1.6km)の水抜坑道と、その煙抜き(換気)のために掘られた坑口の位置が示されています。煙抜き坑は、二から六番坑まであり、この図には、五番坑まで描かれています。最終的には、五番目の煙抜き坑が、院内銀山の主要な坑口「五番坑」となり、明治天皇が入られて「御幸坑」と呼ばれる様になりました。 また、初期の院内銀山の技術史を知る有用な文献として、秋田藩士の黒沢元重が残した「鉱山至宝要録」(1691年)(読みやすいものでは『日本科学古典全書』第十巻に翻刻したものが収録。)があります。黒沢は、政景没後、40年ほど空席になっていた惣山奉行を継いだ人物で、鉱山技術に関する自身の経験を後世に残すために、この本を書いたと記述しています。この本の鉱山技術は、院内銀山を実例として書かれています。残念ながら、黒沢の「鉱山至宝要録」を詳細に解説した文献は少なく、これからの研究が待たれます。
〇天保の盛山の頃 9代藩主義和公の藩政改革によって、院内銀山にも鉱山改革が始まり、低迷していた銀山が「天保の盛山」を迎えることになりました。この繁栄の頃を記録する絵図の一つが、「院内銀山鋪岡略絵図」(安政3年(1856)、秋田大学二点所蔵、湯沢市所蔵)です。この絵図は、五番坑を中心に、院内銀山の坑内での運搬や水抜きの様子を地下の断面図として描かれたもので、同じ構図の絵図が県内に三点見つかっております。この絵図が書かれた意味ですが、「スッポン樋」による坑内の排水技術を伝えるものと推定しています。また、この絵図は、通常は決して見ることができない、坑内で働く坑夫たちの人物描写が見事なため、これを見た人の多くが書き写したいとの思いから、今日にいくつかの写本が残ったものと考えられます。 とくに、湯沢市に残る同絵図は、佐竹南家のお抱え絵師である遠藤昌益(1821~没年不詳、別名 近松永和)が書いたものです。この絵師は、同時期に「院内銀山真景甲子春月図」(元治元年 (1864)、湯沢市所蔵)を残しています。この絵図は、今から150年ほど前の春の院内銀山町を鳥瞰して描いたもので、絵画として非常に美しいものです。また、この絵図は、盛り山は過ぎていますが、この当時の院内銀山の繁栄を示したものと思われます。この絵図より、十分一番所や大切坑から、銀山川を遡って銀山町へと辿ると、主鈴坂を越えた先に、銀山町の表御門が見えます。その奥の小山には金山神社が見え、この神社の右正面に、五番坑を管理する大きな建屋が見られます。この五番坑から見て、直上には、銀山町全体を司る藩の役所である御台所が描かれています。この絵図を詳細に紐解くことで、「天保の盛山」によって再開発された院内銀山町の姿が明確に見えてくると思われます。
〇おわりに 本稿では、院内銀山初期の基本坑道図を表した「羽州雄勝郡院内銀山惣絵図」(宝永4年(1707)、国文学研究資料館所蔵)や、天保の盛山後の銀山町の繁栄を示す「院内銀山真景甲子春月図」(元治元年 (1864)、湯沢市所蔵)、そして坑内の排水手法を示す「院内銀山鋪岡略絵図」(安政3年(1856)、秋田大学二点所蔵、湯沢市所蔵)について、簡単に解説しながら、院内銀山の盛衰を辿りました。今後は、これまでの資料をより詳しく読み解くとともに、新たな資料の発見による鉱山史の解明が待たれます。
秋田大学国際資源学部附属鉱業博物館 館長 今井忠男 |
現住所 | 秋田県湯沢市 |
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