アーカイブ一覧
荒川鉱山 詳細
鉱山名 | 荒川鉱山 |
解説文 |
『荒川鉱山小史』 ●荒川太郎と荒川地域の金・銀山 旧協和町の荒川地区は、古代より金・銀山が集中する重要な地域でした。 前九年および後三年の合戦で活躍した清原氏一族の吉彦秀武は、仙北郡を所領とし、荒川太郎の通称で知られています。また、清原氏の惣領、武貞(真衡、清衡、家衡の父)の通称も同じ荒川太郎でした。このように、秋田の仙北地域において、「荒川」の名は有力豪族の通称に用いられるほど重要な地名でしたが、今のところ、この「荒川」が仙北のどこを指すかは判明していません。 例えば、吉彦秀武は、清原真衡の養子の祝言に、大杯一杯の砂金を献上しようと持ってきましたが、真衡の不遜な扱いに怒り、砂金を庭に撒いて帰館してしまいます。これが、後三年の合戦の始まりとして知られているエピソードです。このように、荒川太郎秀武は、所領にある有力な金山を背景に、力を誇っていたと考えられます。このことから、この「荒川」とは、旧協和町の荒川地区の金・銀山地帯を指していたのではないか、という説があります。 ●荒川の銀山の隆盛 江戸時代、佐竹氏が入部した頃には、すでに荒川地区に、院内銀山と同様に有力な、荒川銀山が存在しており、大いに繁栄していました。その後、荒川銀山に関する記述が無くなるため、現在、荒川銀山は特定されていませんが、同地区に存在した畑銀山を含む幾つかの銀山の総称ではなかったか、という説もあります。 この畑銀山の一部は、畑鉱山として昭和47年(1972年)まで続きました。明治初期においても、畑鉱山では年間300〜400貫(1.5トン)の銀が生産されており、同時代の院内銀山と同等の生産量であることから、江戸初期の最盛期には、荒川の銀山は、院内銀山を凌いでいたかも知れません。 なお、銀の製錬に必要な鉛は、荒川の奥の亀山盛鉱山で生産されていたと思われます。 ●畑銀山の大崩落と銅山の開発 元禄4年(1691年)には、隆盛していた畑銀山で大崩落事故が発生し、一時期、操業が困難となりました。このため、多くの山師が畑銀山を離れ、新たな鉱山の開発を試みました。特に、江戸幕府が国内の銅の生産を奨励したこともあって、荒川の上流地域の、尾改沢や宮田又で、銅山の発見が相次ぎました。 1700年に発見された尾改沢銅山は、後に荒川鉱山と名乗るようになり、明治期に近代鉱山として発展しますが、江戸期における荒川地域の銅山の全生産量は、同時代の阿仁鉱山の1/10以下であり、決して大きな銅山ではありませんでした。 ●近代の荒川鉱山の繁栄と衰退 しかし、荒川鉱山は、明治6年に瀬川安五郎に買取られ、その後、嗽沢(うがいさわ)に銅の大鉱床が発見されると、近代技術の導入もあって、生産量は飛躍的に増大し、明治の中頃には、阿仁鉱山に匹敵する規模の大銅山となりました。明治40年、最盛期の頃には、現在、遺構として残る第二選鉱場が建設されました。この選鉱場は、大正期には最新技術の浮選法の設備を導入し、大正13年には大規模な改修を行なって、中央大選鉱所となりました。ところが、昭和の始めには生産量が減退すると、人員整理ののち、昭和15年には、急に荒川鉱山は閉山してしまいました。今も遺構が残る中央大選鉱所は、最新設備を導入し、大改修しながらも、その後、わずか16年間しか稼働できませんでした。その後、設備や技術者の多くを、同じ三菱系列の尾去沢鉱山に素早く移しており、尾去沢鉱山に経営資本の集中化を行ったようです。 なお、荒川地域の鉱山は、昭和40年に宮田又鉱山が閉山、昭和46年には畑鉱山が休山して、400年以上続いた鉱山の歴史に幕が閉じられました。 |
現住所 | 秋田県大仙市 |
コンテンツ一覧

検索中