資料区分 県史複製
請求番号 H22-2中世
文書群名 長野正夫家文書(極楽院文書)
伝存地 箕郷町(現高崎市)
出所 箕郷町中和田(現高崎市箕郷町和田山) 長野正夫家文書(極楽院文書)
地名 和田山→和田山村
旧支配 長野氏→武田氏→北条氏
役職等 西上野年行事職・上州年行事職
歴史 和田山極楽院清涼寺と号し、本山派の修験宗に属した。本尊は不動明王。箕輪城主長野業政の帰依により良雲が開山し、真言宗であった。二代鎮良は長野業盛の遺児亀寿丸で、同城落城後良雲に養育され、のち聖護院道澄親王の弟子となった(天和2年「由緒朱印高書上」・文政10年「極楽院法系」長野家蔵)。極楽院は武田氏から前和田のうち14貫500文、下箕輪のうち3貫文を与えられており(永禄11年正月23日付「武田信玄定書」中沢文書ほか)、西上野年行事職(天正4年6月17日付「武田勝頼定書」住心院文書)、上野国総山伏中年行事職を勤めている(同10年3月28日付「滝川一益判物写」極楽院文書)。北条氏の勢力下に入っても知行分は変わらず(同10年7月5日付「北条氏邦定書」同文書)、榛名山麓修験の中心の一となった。江戸時代には26石余の寺領があった(前掲書上)。
伝来 長野家に伝来した。聖護院系の修験関係文書で写しが多い。本書の一部はいつの頃か京都の本山住心院に寄進され、今や住心院文書(9点)となっている。
数量 29
年代 元亀元年(1570)~文久3年(1863)
構造と内容 一番古いのは、天文頃の11月15日で長野信濃守が笛吹峠一戦にて同心したことに感謝した文書である(「武田晴信書状写」)。長野氏滅亡後、元亀元年9月10日極楽院内にて竹木伐採を禁じることを内藤昌秀が箕輪在城衆・同番手衆に命じている(「内藤昌秀判物写」)。元亀3年2月3日武田信玄は竹木伐採の禁など3カ条の権益保護を極楽院に認めている(「武田信玄定書」)。天正4年6月17日信玄は極楽院に「下箕輪」のうち三貫文を与えており(「武田家朱印状写」)、北条氏の勢力下に入ったのちも変わらなかった(天正10年午7月5日「北条氏邦定書」・天正12年3月9日付「北条氏直安堵状写」)。また、年行事職については、(天正13年)閏8月12日聖護院慶忠は、極楽院が上州年行事職に加え東上州年行事職も務めることを認めることを猪俣能登守に伝えている。聖護院から北条家臣の猪俣能登守・垪和伯耆守に出された文書が3点ある。北条氏滅亡後、(天正20年)1月23日徳川家康も上野国年行事職について極楽院の権益を認めている(「徳川家康朱印状写」)。
検索手段 『群馬県史収集複製資料目録』第1集、当館インターネット検索目録
利用上の留意点 本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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