資料区分 県史複製
請求番号 H41-4-1近世
文書群名 山田松雄家文書
伝存地 多野郡鬼石町譲原(現藤岡市)
出所 藤岡市(旧鬼石町) 山田松雄家
地名 甘楽郡譲原村(江戸時代)/南甘楽郡譲原村(明治11年~)/南甘楽郡美原村大字譲原(明治22年~)/多野郡美原村大字譲原(明治29年~)/多野郡鬼石町譲原(昭和29年~)/藤岡市譲原(平成18年~)
旧支配 徳川氏代官支配(天正年間)/幕府代官・関東郡代支配(慶長8年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年10月~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 譲原村名主、寄場組合小惣代、戸長など
歴史 譲原は、神流川左岸に位置する。枝村に、今里村・萱蕪村がある。▼村高は、「寛文郷帳」で畑方202石余、「元禄郷帳」では枝村を合わせて275石余、「天保郷帳」「旧高旧領」とも同高。▼年貢は、寛永16年(1639)が永44貫文余の綿本代金納と永10貫文余の漆納、明暦2年(1656)では永56貫文余となっている(当家文書/『群馬県史』資料編9)。▼全て畑方の当村は、農間渡世による現金収入が必要で、文政10年(1827)の農間渡世書上(当家文書)によると、地の利を得た林産物渡世、特に屋根板関係の渡世が目に付く。▼その他、草履・草鞋、煙草商いや駕籠屋・旅籠屋など十石峠道往来人をにらんでの渡世も見える。▼災害は、当家文書から元禄12年(1699)以降幕末まで当村で17回も発生している。風水害が主であるが、特に天明3年(1783)の浅間山焼けの被害は甚大であった。▼文化4年(1807)には頼母子講が始められ、明治期まで続けられた。▼明和元年(1764)、勅使の日光からの下向に際し伝馬助郷が徴発され発生した「伝馬騒動」に村人も参加した。▼万延2年(1861)、神流川谷の上州・武州の農民が鬼石商人の不正商売を糾弾して米麦高値騒動が発生した。当村万福寺中にて交渉され、打ち毀しには至らなかった。▼時宗万福寺は、至徳元年(1384)創建と伝えられ、3石の朱印地が与えられている。▼幕末期の改革組合村高帳では、坂原村・万場村両寄場組合に属し、高272石余、家数162。
数量 317
年代 慶長19(1614)年~明治3(1870)年
構造と内容 年代のわかる最も古い文書は、慶長19(1614)年の「譲原郷寅御成ケ相定事」、次いで元和元(1615)年の「卯年譲原之郷御年貢可納割付之事」である。▼近世譲原村の名主文書が中心である。▼この地域に独特の漆年貢について記述された割付状など、年貢関係が多い。▼ほかに御用書留、宗門御改帳、明細帳など。▼天明の浅間焼けの被害に関する文書、「差出申一札之事(三波石出し方差障り一件)」もある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 同家の当館所蔵資料は、原本の「山田松雄家文書」(P8217)、また、県史複製資料の「山田松雄家文書」(H41-2中世)がある。ほかに『鬼石町誌』(1984年10月)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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