資料区分 県史複製
請求番号 H42-9-2近世
文書群名 小林義夫家文書
伝存地 吉井町(現高崎市)
出所 多野郡吉井町(現・高崎市) 小林義夫家
地名 多胡郡矢田村(近世)/多胡郡吉井町矢田(明治22年~)/多野郡吉井町矢田(明治29年~)/高崎市吉井町矢田(平成21年~)
旧支配 吉井藩領(天正18年~、菅沼氏)/幕府領/旗本松平氏領(延宝2年~)/吉井藩領(宝永6年~、鷹司松平氏)/岩鼻県(明治2年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 吉井藩(鷹司松平家)藩士・家老等
歴史 小林家は中世、藤岡・吉井地域の武士であったという。正近は延宝2(1674)年の吉井藩主松平(鷹司家)信清の関東下向以来、領地一円の郡奉行、次代正甫は在所家老、正昭から代官を務めた。▼省吾(弘化元年生)は藩学問所の教授、後に吉井町会議員等を務めた。▼義夫(甲子次郎、嘉永3年生)は省吾の弟で、藩学助教、岩鼻県監察、司法省に勤務し初代北甘楽郡長、後に大審院判事となった。▼宝永6(1709)年、鷹司松平家に多胡郡・緑野郡等1万石が与えられた。陣屋は多胡郡矢田村に置かれ、緑野郡木部村(現・高崎市)への移転等の後、宝暦2(1752)年、吉井宿に定まった。▼上野国内における吉井藩領は高崎藩領周辺に散在しており、そのうえ幕府領・旗本領・大名領等との相給が多かった。▼慶応4年、松平から吉井に改姓した。▼矢田は上信国境に源をもち、東流する鏑川下流の右岸の多胡段丘と吉井段丘にわたり、矢田川(旧・天久川)流域に位置する。▼村高は「寛文郷帳」で537石余、うち田方193石余・畑方343石余。「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」とも同高。▼幕末の改革寄場組合では、吉井村を寄場とする多胡郡27か村の組合に属し、家数25。▼天正18年、徳川家康から吉井領を与えられた菅沼氏は、吉井の城下建設に際し、周辺からの移住策をとったが、その過半は当村からという。▼松平鷹司家が陣屋を置いた延宝7年から宝暦2年まで、当地は領内の政治・文化の中心地であった。▼天久沢の馬頭観音は多胡郡三十三観音の第23番札所。
伝来 小林家に伝来。
数量 2
年代 明治35年(1902)
構造と内容 吉井藩主鷹司松平家の家臣で、家老も務めた小林家の資料2点である。▼「吉井藩公御登城之図 完(藩主松平左兵衛督藤原信発)」は明治35年に作成された絵巻である。吉井藩士の河野詮義が写生した絵巻物を元吉井藩士の小林義夫(嘉永3年生)が借り、緑堂松岡正盛(旧幕臣)が写したものである。▼なお、同じく家臣だった「橳島堅次家文書」(H42-1-5近世)には、吉井藩主の江戸から吉井までの行列を文字で記した「御入国御行列附」(①/14)がある。▼ほか1点は「平姓小林系図」である。家老を務めたことや、近隣の村の家との姻戚関係等も記されている。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 当館の収蔵資料に、吉井藩に関する文書として「小此木千代子家文書」(P8206)、「貫属明細短冊帳(旧沼田藩・旧小幡藩・旧吉井藩・その他)」(A0387B0G 2548)、マイクロフィルム収集文書「上野吉井藩記録」(PF9003)、県史複製資料「吉井町郷土資料館文書7(土屋百合子氏寄贈史料)」(H42-1-1(7)近世)、「吉井町郷土資料館文書」(H42-1-1近世)等。▼近世の吉井村(吉井宿)に関する文書として「吉井町郷土資料館文書5(本多夏彦氏寄贈史料)」(H42-1-1(5)近世)、「大澤末男家文書」(H42-1-2近世)等。▼矢田の文書群として「吉井町郷土資料館文書9(伊藤幸吉家文書)」(H42-1-1(9)近世)、「斉藤弥平家文書」(H42-9-1近世)等。▼絵図として壬申地券地引絵図「矢田村」(A0181AMA 106、国重文)等。▼図書として『吉井町誌』『多野藤岡地方誌』『群馬県多野郡誌』吉井町の項、『郡村誌』吉井村の項ほか、『島高堅自記 多胡旧記・吉井町由来覚書』等。▼当資料と同じく「H42-」で請求番号が始まる県史収集複製資料は、旧・多野郡吉井町に伝来した資料である。▼参考文献:上記の他に『角川日本地名大辞典10群馬県』『群馬県史』『群馬県姓氏家系大辞典』等
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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