資料区分 県史複製
請求番号 H42-10-1近世
文書群名 神保金光家文書
伝存地 吉井町(現高崎市)
出所 多野郡吉井町(現・高崎市) 神保金光家
地名 多胡郡多胡村(近世)/多胡郡多胡村多胡(明治22年~)/多野郡多胡村多胡(明治29年~)/多野郡吉井町多胡(昭和30年~)/高崎市吉井町多胡(平成21年~)
旧支配 吉井藩領(天正18年~、菅沼氏)/幕府領(慶長15年~)/幕府領と旗本領(門奈・川村・野呂氏)の相給/幕府領が御三卿清水家領(文政7年~)/一村が幕府領(安政4年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 名主
歴史 神保家の先祖の氏道は安中藩に仕え、正保2(1645)年に藩主の井伊氏が三河国へ転封の際、多胡村に土着したという。代々名主を務めた。▼なお、多胡に隣接する神保には地名の由来と考えられる多胡郡総鎮守の辛科神社(上野国神名帳従二位、高崎市指定史跡)があり、中世には神保氏がいた。▼この神保氏の一部は慶長3年吾妻地方へ移り、さらに三国街道の宿場の成立にともなって金古町(現・高崎市)へ移り、代官や名主を務めたという。▼多胡は上信国境に源をもち、東流する鏑川右岸の多胡段丘上に位置する。▼地名は和銅4(711)年に新設された多胡郡に由来すると考えられる。▼村高は「寛文郷帳」で290石余、うち田方71石余・畑方218石余、「元禄郷帳」291石余、「天保郷帳」「旧高旧領」とも同高。▼寛延2(1749)年の村指出明細帳(井上家文書)によれば、用水は沼・溜池がなく、山沢野水を利用、年貢は悪米のため金納、秣場は大沢山・あかや山を利用していたとある。赤谷山は現在の牛伏山(大野秣場があった。H42-1-2近世の1/6、PF9003の8/57等)、あるいは牛伏山麓の赤谷地区の山と考えられる。▼西松田に仁叟寺末寺の松田院龍源寺がある(曹洞宗)。▼明治22年に鏑川支流の大沢川流域の多胡・塩・神保・高・東谷・大沢の6か村が合併して多胡村が成立した。▼多胡に隣接する神保には大永2年(1522)創建の公田院仁叟寺(高崎市指定重要文化財)がある。
伝来 神保家に伝来。
数量 13
年代 承応4年(1655)~承応4年(168)
構造と内容 多胡村の名主、神保藤兵衛が作成したり、受け取った文書が多い。また、旗本門奈氏の関係者あてが4点ある。▼承応4年の「上野国西上州田期村名寄帳」以外は、天明元年以降のものである。▼幕末の「年貢諸勘定目録帳」が5冊ある。ほかに「〔多胡村差出帳〕*下書」など。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 当館の収蔵資料に、絵図として明治6年の壬申地券地引絵図「多胡村」(A0181AMA 758、国重文)等。▼多胡地区の近世の文書群として「大沢要八家文書」(H42-15-1近世)、「酒井虎雄家文書」(H42-14-1近世)、等。▼多胡地区の近代文書として、明治22年成立の多胡村初代村長向井周弥の日記・手記類のある「向井周治家文書」(H42-13-1近現)、旧多胡地区の役場文書「吉井町郷土資料館文書1」(H42-1-1(1)近現)・「吉井町郷土資料館文書2」(H42-1-1(2)近現)等。▼吉井村(吉井宿)に関する文書として「吉井町郷土資料館文書5(本多夏彦氏寄贈史料)」(H42-1-1(5)近世)、「大澤末男家文書」(H42-1-2近世)等。▼「吉井領」に関する文書としてマイクロフィルム収集文書「上野吉井藩記録」(PF9003)等。▼図書として『吉井町誌』『多野藤岡地方誌』多胡地区の項、『群馬県多野郡誌』多胡村の項、『郡村誌』多胡村の項、『島高堅自記 多胡旧記・吉井町由来覚書』等。▼また、当資料と同じく「H42-」で請求番号が始まる県史収集複製資料は、旧・多野郡吉井町に伝来した資料である。▼参考文献:上記の他に『角川日本地名大辞典10群馬県』『群馬県史』『群馬県姓氏家系大辞典』等
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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