資料区分 県史複製
請求番号 H42-14-1近世
文書群名 酒井虎雄家文書
伝存地 吉井町(現高崎市)
出所 多野郡吉井町(現・高崎市) 酒井虎雄家
地名 多胡郡東谷村(近世)/多胡郡多胡村東谷(明治22年~)/多野郡多胡村東谷(明治29年~)/多野郡吉井町東谷(昭和30年~)/高崎市吉井町東谷(平成21年~)
旧支配 吉井藩領(天正18年~、菅沼氏)/幕府領/御三卿清水家領(文政7年~)/幕府領(安政4年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
歴史 酒井家の遠祖は永禄10年、武田信玄に起請文を提出した酒井中務小輔高重で(生島足島神社文書)、一族は八束城(城山)に拠り、江戸初期頃には大判地に移住したという(明治9年に字神戸へ移住)。▼子孫達は忠兵衛を襲名し、修験道を修め、代々名主も務めた。▼明治6年に地籍図の取調人であった忠平→万平→角五郎→虎雄氏が継いだ。▼分家筋と伝わる家があり、その家は古くは安野氏を称し、明治23年に酒井姓に改めた。▼東谷は四方を標高300~400mの山々で囲まれる山間地に位置し、鏑川支流の大沢川(元禄十五年上野国絵図に記載)、大沢川支流の東谷川(大判地川)や草喰川が流れる。▼集落は東谷川沿いの大判地、大沢川・東谷川の合流する落合、それより下流の神戸に分かれる。▼多胡石(牛伏砂岩)が切り出された朝日岳は、山容から多胡美人と愛称される。▼元禄15年上野国絵図(県重文)には、東谷川下流より小梨峠(小梨山・大沢山)を経て、上鹿島の養浩院付近(藤岡市上日野)へ通じる道が記されている(現在「関東ふれあいの道」、未舗装)。▼村高は「寛文郷帳」で131石、うち田方31石余・畑方99石余、「元禄郷帳」179石余、「天保郷帳」「旧高旧領」とも同高。▼東谷山不動院吉祥寺がある。甘楽郡一の宮光明院の末寺で、寺子屋があったという。開山当時は東谷字神戸にあった(石垣が残るという)。明和年間(1764~72)に隠居寺として現在地に移った。▼住吉神社は当地および隣の大沢の鎮守で、古くは北向不動と呼ばれ、羊太夫に関する伝説がある。付近に東谷渓谷がある。▼幕末の改革寄場組合では、吉井村を寄場とする多胡郡27か村の組合に属し、家数54。▼大正期に製糸工場甘楽社住吉組工場があった。河畔の鉱泉を利用し、東鉱泉が一時経営された。
伝来 酒井家に伝来。
数量 29
年代 延宝5年(1677)~嘉永6年(1853)
構造と内容 東谷村の名主文書である。検地帳等土地に関する文書、宗門人別帳等戸口に関する文書等がある。▼「覚(桑の目並び枯れ桑刈取り日限に付)」(1/72)は桑取扱いに関する議定である。元禄14年には養蚕が行われていたことがわかる。(『群馬県史 資料編9』収録)。▼延宝5年の「吉井領東谷村」の検地帳は吉井町地域でも古い検地帳である。▼大沢川の上流部にあった山村の様子を伝える貴重な史料群である。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 当館の収蔵資料に、絵図として明治6年の壬申地券地引絵図「東谷村」(A0181AMA 762、国重文)等。▼多胡地区の近世の文書群として隣の大沢の「大沢要八家文書」(H42-15-1近世)のほか、「神保金光家文書」(H42-10-1近世)等。▼多胡地区の近代文書として、明治22年成立の多胡村初代村長向井周弥の日記・手記類のある「向井周治家文書」(H42-13-1近現)、旧多胡地区の役場文書「吉井町郷土資料館文書1」(H42-1-1(1)近現)・「吉井町郷土資料館文書2」(H42-1-1(2)近現)等。▼近世の吉井村(吉井宿)に関する文書として「吉井町郷土資料館文書5(本多夏彦氏寄贈史料)」(H42-1-1(5)近世)、「大澤末男家文書」(H42-1-2近世)等。▼「吉井領」に関する文書としてマイクロフィルム収集文書「上野吉井藩記録」(PF9003)等。▼図書として『吉井町誌』『多野藤岡地方誌』多胡地区の項、『群馬県多野郡誌』多胡村の項、『郡村誌』東谷村の項、『島高堅自記 多胡旧記・吉井町由来覚書』等。▼当資料と同じく「H42-」で請求番号が始まる県史収集複製資料は、旧・多野郡吉井町に伝来した資料である。▼参考文献:上記の他に『角川日本地名大辞典10群馬県』『群馬県史』『群馬県姓氏家系大辞典』等
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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