資料区分 県史複製
請求番号 H42-15-1近世
文書群名 大沢要八家文書
伝存地 吉井町(現高崎市)
出所 多野郡吉井町(現・高崎市) 大沢要八家
地名 多胡郡大沢村(近世)/多胡郡多胡村東谷(明治22年~)/多野郡多胡村東谷(明治29年~)/多野郡吉井町東谷(昭和30年~)/高崎市吉井町東谷(平成21年~)
旧支配 吉井藩領(天正18年~、菅沼氏)/幕府領/御三卿清水家領(文政7年~)/幕府領(安政4年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 名主、戸長、村長等
歴史 江戸後期、藤原姓安野氏の宗家要八は大沢村に移り、清水領名主を命じられて大沢と改姓した。子の九蔵、森蔵、七郎治(西家/にしんち)は代々名主を継いだ。吉井宿で絹市再興の動きがあった際、九蔵は郡中惣代の一人であった。▼七郎治は文久元年に名主役を命ぜられ、明治維新後は組頭、戸長として活躍。住吉神社に顕徳碑が建つ。▼七郎治の子の良太郎は2代目の多胡村村長等、所蔵者の要八は良太郎の子で、5代目の多胡村村長、吉井町教育長等を務めた。▼他に森蔵の子からは、中家(なかんち)の安六の養子となった幾太郎が総代人となった。▼昔から山の神十二天を祀る。大沢でこの祭祀を行う家は十二家(じゅうにんち)と呼ばれる。▼大沢は北を八束山(城山)、南を標高700mの大沢山の連峰(小梨山)に囲まれる山間地に位置し、その間を渓流を合わせた鏑川支流の大沢川(元禄15年上野国絵図に記載)が北西へ流れる。▼隣の東谷との境界は犬牙錯雑し、かつては東谷と一村であったといわれる。▼藤岡市日野(旧・多胡郡)に接し、「弘法の井戸」がある高地集落、高井戸へ通ずる道等がある。▼元禄15年上野国絵図(県重文)には隣の東谷村に、小梨峠(小梨山・大沢山)を経て、上鹿島の養浩院付近(藤岡市上日野)へ通じる道が記されている(現在「関東ふれあいの道」、未舗装)。▼村高は「寛文郷帳」で畑方77石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」とも同高。▼幕末の改革寄場組合では、吉井村を寄場とする多胡郡27か村の組合に属し、家数31。▼寺院に菩提寺があったが、明治初年に焼失し、これを契機に村民は神葬祭に代わったという。明治40年、神社を東谷の住吉神社に合祀した。
伝来 大沢家に伝来。
数量 12
年代 貞享2年(1685)~明治9年(1876)
構造と内容 名主を務めた大沢家に伝わった文書である。状物が多い。▼「乍恐以書附奉願上候(福島川岸出水にて河岸場着船差支え中島村へ出稼ぎに付)」(1/112)は鏑川の舟運に関するもので、河岸の営業移転願である(安政5年)。福島は大沢川と鏑川の合流地点の上流にあった。▼「不動尊之儀ニ付不法出入為取替議定一札(東谷大神の改号一件)」(1/199)は大沢村の本山派修験不尊院改号出入に関する示談書である(明治2年)。隣の東谷村が両村の神社を東谷大神と称したことに対し、住吉大神と改号すること等を取り決めている。(以上2点は『群馬県史 資料編9』収録)。▼馬庭念流樋口家と堀部安兵衛の関係を示す「進状之事(敵討ち褒賞として備前国守行刀を送付)」もある(1/102)。大沢七郎治は馬庭念流の高弟であった。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 当館の収蔵資料に、絵図として明治6年の壬申地券地引絵図「大澤村」(A0181AMA 763、国重文)等。▼多胡地区の文書群として、隣の東谷の「酒井虎雄家文書」(H42-14-1近世)のほか、「神保金光家文書」(H42-10-1近世)等。▼多胡地区の近代文書として、明治22年成立の多胡村初代村長向井周弥の日記・手記類のある「向井周治家文書」(H42-13-1近現)、旧多胡地区の役場文書「吉井町郷土資料館文書1」(H42-1-1(1)近現)・「吉井町郷土資料館文書2」(H42-1-1(2)近現)等。▼近世の吉井村(吉井宿)に関する文書として「吉井町郷土資料館文書5(本多夏彦氏寄贈史料)」(H42-1-1(5)近世)、「大澤末男家文書」(H42-1-2近世)等。▼「吉井領」に関する文書としてマイクロフィルム収集文書「上野吉井藩記録」(PF9003)等。▼図書として『吉井町誌』『多野藤岡地方誌』多胡地区の項、『群馬県多野郡誌』多胡村の項、『郡村誌』大沢村の項、『島高堅自記 多胡旧記・吉井町由来覚書』等。▼当資料と同じく「H42-」で請求番号が始まる県史収集複製資料は、旧・多野郡吉井町に伝来した資料である。▼参考文献:上記の他に『角川日本地名大辞典10群馬県』『群馬県史』『群馬県姓氏家系大辞典』等
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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