資料区分 県史複製
請求番号 H42-21-2近世
文書群名 吉田治夫家文書
伝存地 吉井町(現高崎市)
出所 多野郡吉井町(現・高崎市) 吉田治夫家
地名 多胡郡黒熊村(近世)/多胡郡入野村黒熊(明治22年~)/多野郡入野村黒熊(明治29年~)/多野郡吉井町黒熊(昭和30年~)/高崎市吉井町黒熊(平成21年~)
旧支配 吉井藩領(天正18年~、菅沼氏)/幕府領(慶長6年~)/旗本倉橋氏領(同7年~)/安中藩領(寛文8年~)/幕府領(天和元年~)/吉井藩領(同2年~、堀田氏)/旗本牟礼・川勝・杉山氏の相給(元禄11年~)/川勝氏領は幕府領(宝永7年~)/牟礼氏領は幕府領(元文5年~)、御三卿清水家領(文政2年~)、幕府領(安政2年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 名主
歴史 吉田家には吉田左近助あての「武田晴信感状(佐久郡志賀城の戦功に付)」等の中世文書が伝わる(請求番号H42-4中世)。▼上杉系の三木家と武田系の吉田家とが、黒熊地域を西と東に分けていたという。▼先祖の大学院権大僧都以来、修験道を修め、彦兵衛を襲名した。▼黒熊は上信国境に源をもち、東流する鏑川下流の右岸南方の上位段丘上に位置する。▼村高は「寛文郷帳」で303石、うち田方209石余・畑方93石余、「元禄郷帳」391石余、「天保郷帳」「旧高旧領」393石余。▼幕末の改革組合村高帳では、吉井村を寄場とする多胡郡27か村の組合に属した。家数39、人数269。▼地内南部の武沼は当村のほか、緑野郡緑野村・西平井村3か村の入会沼であったが、次第に開田が進められたため、沼の伏流水は地中深くを流れるようになり、当村は用水に不足をきたした。▼黒熊山地蔵院延命寺は緑野・多胡・甘楽3郡の三十三観音霊場の第1番札所となっている。▼明治7年、当村のほか小串村・石神村・中島村と連合し、延命寺に黒熊小学校を開校した。後に境内に黒熊公民館を建設。▼明治42年、字吉田に鎮座の浅間神社に、地内の小社を全て合祀し、翌年、小串地区の各社を合祀、大正14年、現在地に社殿新築。▼明治22年の入野村成立を記念した入野碑がある(高崎市指定文化財、篆額は九条道孝公、撰文と書は金井之恭)。
伝来 吉田家に伝来。
数量 27
年代 延宝5年(1677)~寛政元年(1789)
構造と内容 黒熊村に関する文書である。検地帳等土地に関する文書、年貢割付状・皆済目録等年貢に関する文書、五人組帳・宗門人別帳等戸口に関する文書等がある。▼ほかに吉田家の歴史に関するものとして「〔戸石城合戦之事他〕」「〔武田家系図〕」等。▼「預り申金子之事(七右衛門身上不如意に付合力金預り)」(2/63)は、元禄15年の吉田彦兵衛あて吉井町商人絹仕切金借用証文である。▼「乍恐以書付御願申上候(百姓困窮に付御救い願)」(2/58)は、村内の秣場の農地開発を願い出た村人2名に対し、村人72名が反対して、幕府代官へ提出した草刈場確保願いである。▼本文書では村内の秣場では足りず、遠い多胡郡大沢村(牛伏山南麓)の秣場まで通って「山札銭」を払っているが、先年から山札は村中へ6枚と決まってしまった、と窮状を訴えている。(以上2点は『群馬県史 資料編9』収録)
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 当館の収蔵資料に、中世の同家文書として「吉田治夫家文書」(H42-4中世)、黒熊の文書群として「三木春美家文書」(H42-21-1近世)。▼絵図として明治6年の壬申地券地引絵図「黒熊村」(A0181AMA 769、国重文)等。▼入野小学校校区の文書群として「吉井町郷土資料館文書2(旧入野村役場蔵)」(H42-1-1(2)近世)、「富田真司家文書」(H42-17-1近世)、「新井勇家文書」(H42-18-1近世)等。▼「吉井領」に関する文書があるマイクロフィルム収集文書「上野吉井藩記録」(PF9003)等。▼図書として『吉井町誌』『多野藤岡地方誌』入野地区の項、『群馬県多野郡誌』入野村の項、『郡村誌』黒熊村の項、『島高堅自記 多胡旧記・吉井町由来覚書』等。▼当資料と同じく「H42-」で請求番号が始まる県史収集複製資料は、旧・多野郡吉井町に伝来した資料である。▼参考文献:上記の他に『角川日本地名大辞典10群馬県』『群馬県史』『群馬県姓氏家系大辞典』等
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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