資料区分 県史複製
請求番号 H42-24-1近世
文書群名 樋口昇家文書
伝存地 吉井町(現・高崎市)
出所 多野郡吉井町(現・高崎市) 樋口昇家
地名 多胡郡馬庭村(近世)/多胡郡入野村馬庭(明治22年~)/多野郡入野村馬庭(明治29年~)/多野郡吉井町馬庭(昭和30年~)/高崎市吉井町馬庭(平成21年~)
旧支配 吉井藩領(天正18年~、菅沼氏)/旗本長谷川氏領(慶長6年~)/幕府領(寛文4年~)/高の半分が旗本本間・長崎氏領(同9年~)、残りの幕府領が旗本長谷川・京極・山田氏領、以後5氏の相給(元禄9年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 馬庭念流宗家
歴史 樋口家は古武道の馬庭念流(高崎市指定重要無形文化財)を伝承する家である。昇氏は24世定広。▼馬庭氏(弘治年間に飯玉神社を創建)の居住跡へ、武州から馬庭氏の一族の高麗氏が移ってきた。その家に、念流を伝える樋口氏が寄寓土着したという。▼以降、馬庭は樋口又七郎定次が中興した剣術馬庭念流の村として知られるようになった。▼樋口家からは松平定信に剣の道を説いた14世樋口定暠、江戸神田明神下に大道場を開き矢留の術を創始した定伊等が出て、馬庭念流は上州一円の庶民にも広がった。▼樋口家は旗本長崎氏知行所の名主や、馬庭村の年番名主も務めた。▼馬庭念流道場および関係文書は群馬県指定史跡である。▼馬庭は上信国境に源をもち東流する鏑川の左岸に位置し、地形は馬庭段丘と中山丘陵とに大別できる。▼村高は「寛文郷帳」で1050石余、うち田方392石余・畑方658石余、「元禄郷帳」1152石余、「天保郷帳」1153石余、「旧高旧領」1148石余。▼幕末の改革組合村高帳では、吉井村を寄場とする多胡郡27か村の組合に属した。▼明治3年の組合村家数人別書上帳によれば家数108、人数562。▼同村からは鍛刀の染竜泉保則、相撲の佐渡ケ嶽、俳諧の雲陽庵晋城、獅子舞を復興して郷土文化の振興に努めた小松庵乗らが出た。▼鏑川には渡場が設けられ、下仁田街道の吉井宿と中山道の倉賀野宿の往来を結んだ。漁業も盛んに行われた。
伝来 樋口家に伝来。
数量 21
年代 天正19年(1591)~元治元年(1864)
構造と内容 古武道の馬庭念流(高崎市指定重要無形文化財)を伝える樋口家に伝来した文書群である。▼馬庭念流は、近世初頭より上州一円に庶民剣法として非常な盛行をみた。▼本資料には「念流兵法目録」等がある。▼近世の武道允可には、切紙より免状にいたる段階を普通とするが、馬庭念流には目録があるだけで、切紙・目代・免状という允可はなかったという。いずれも目録の名称を用いるが、内容は全く異なったものである。▼「念流太刀組目録」(1/番外2)は後年にいたっても天正19年銘の同文を用いている。▼七日市藩等近隣の藩主や、新田の岩松満次郎らの起請文もあり、入門者は上下を問わず盛んだった様子が知られる。▼前田了圓貞勝の「起証文之事(念流矢留入門に付)」(1/番外4)もある(以上2点は『群馬県史 資料編9』収録)。▼「従安永五年門入帳」(2/60)等には、上州内外の多くの門人の姓名・居住地が記されている。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 高橋敏「上州の在村剣術馬庭念流と武芸のネットワーク」ほか。図書として『群馬県史 資料編9』第5章の「念流」項、同書解説「念流ほか」など。▼ほかに『吉井町誌』『多野藤岡地方誌』入野地区の項、『群馬県多野郡誌』等。▼馬庭地区の絵図として明治6年の壬申地券地引絵図「馬庭村」(A0181AMA 771、国重文)等。▼馬庭小学校校区に関する文書として「馬庭堰土地改良組合文書」(H42-24-1近現)、「吉井町郷土資料館文書8(井上誠三郎氏寄託文書)」(H42-1-1(8)近世)等。▼「吉井領」に関する文書があるマイクロフィルム収集文書「上野吉井藩記録」(PF9003)等。▼当資料と同じく「H42-」で請求番号が始まる県史収集複製資料は、旧・多野郡吉井町に伝来した資料である。▼参考文献:上記の他に『郡村誌』馬庭村の項、『角川日本地名大辞典10群馬県』『群馬県史』『群馬県姓氏家系大辞典』等
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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