資料区分 |
県史複製 |
請求番号 |
H30-5中世 |
文書群名 |
子持神社文書 |
伝存地 |
子持村(現渋川市) |
出所 |
子持村(現渋川市) 子持神社文書 |
地名 |
白井保・白井荘 |
旧支配 |
白井氏→白井城主長尾氏→武田氏→北条氏 |
歴史 |
「上野国神名帳」の総社本には従五位子持明神、一宮本では従五位上児持明神と記され、赤木文庫本「神道集」には児持山明神と記される。同書上野国児持山之事によれば、伊勢国阿野津(現三重県津市)の地頭阿野権守保明の娘子持御前が、諏訪大明神・熱田大明神より神法を授かり、武部山(今の子持山)に住んだのが始まりで、この時子持御前の夫加若次郎は見付山の峠(現吾妻郡中之条町)に和理大明神となって現れ、また吾妻郡岩下村の鳥頭神社(現吾妻町)などが、児持明神の神法により神になったとの説話を載せる。創建は崇神天皇の時か嵯峨天皇の時といわれ、当初社殿は本山奥院の地にあったという。国家鎮護・受胎安産の神として近隣の崇敬が厚い。 |
伝来 |
子持神社に伝来した文書 |
数量 |
8 |
年代 |
安永7年(1778)~寛政11年(1799) |
構造と内容 |
いずれも近世以降に作成された文書。191/1-2「村社子持神社由緒古記録写」には中世文書が書写され、子持神社の歴史を探る上で重要である。永正10年(1513)正月日の「長尾某禁制写」では、白井保子持山における長尾氏軍勢の乱妨狼藉を禁じている。享禄3年(1530)上杉憲顕が現在地に社殿を造営し本山奥院の石窟より遷座したといい、永禄10年(1567)には武田信玄より神領を安堵されている(五月一日「武田信玄朱印状写」)。天正10年(1582)には、渋川村入沢(現渋川市)のうちに「拾弐面参貫五百文之所」の寄進を受けて、北条家の祈祷所に命ぜられている(二月二六日「北条高広寄進状写」)。 |
検索手段 |
『群馬県史収集複製資料目録』第1集、当館インターネット検索目録 |
関連資料 |
H30-6-3近世 子持神社文書 |
利用上の留意点 |
本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。 |