資料区分 県史複製
請求番号 H45-3-1近世
文書群名 黒澤丈夫家文書
伝存地 多野郡上野村乙父
出所 多野郡上野村 黒澤丈夫家
地名 甘楽郡乙父村/南甘楽郡乙父村(明治11年~)/南甘楽郡上野村大字乙父(明治22年~)/多野郡上野村大字乙父(明治29年~)
旧支配 徳川氏代官支配(天正年間)/幕府代官・関東郡代支配(慶長8年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年10月~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 乙父村名主、酒造業など
歴史 乙父は、神流川流域に位置し、乙父沢川が北流して神流川に注ぐ。▼北方に笠丸山、南に雨降山・時計山、乙父沢川の奥には天丸山・帳付山がそびえる。▼神流川を挟んで南北に小集落が点在している。▼枝村に東西村・小春村・柿平村がある。村高は、「寛文郷帳」では34石余で全てが畑方、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに116石余。▼現存する検地帳によると貫文制であり、太閤検地はなかったと思われる。▼宝暦6年(1756)の13か村人数書上控(高崎市立図書館所蔵文書/『群馬県史』資料編9)によると、人数526のうち男271・女257、他に泉竜寺人数1・社家人数1。▼泉竜寺は、天正3年(1575)の開山とされ、慶長3年(1598)に堂を建立。▼地内の乙父沢山・住居附山などに合計9か所の御巣鷹山があり、御用林と御巣鷹の看守にあたる人が乙父沢に住んでいた。▼御用林の檜は、川の流れを利用したせき流しで江戸へ運び出していた。▼山仕事をする人が多く、また木地師として、木鉢・メンパ・臼・シャモジなどを作る人や下駄づくり・屋根板はぎ・漆かきなどの職人で他地域から入り込み、そのまま地内に住みつくようになった人も居る。▼奥地まで畑を耕し、ソバ・アワ・ヒエ・大豆・小豆などの雑穀を主として栽培していた。桑・楮は、荒地や傾斜地の畑を利用して作り、養蚕・和紙づくりに励んだ。▼紙・大豆・小豆・絹の順で現金収入を得ていた。▼幕末の改革組合村高帳では、楢原村寄場組合に属し、高116石余・家数117。
数量 162
年代 慶長15(1610)年~明治8(1875)年
構造と内容 年代のわかる最も古い文書は、慶長15(1610)年の「書札法式(書状の次第軽重の事他9カ条)」、次いで慶長20(1615)年の「〔深山へ入山の心得・呪文〕」である。▼近世乙父村の村方文書と、黒澤家の私文書から成る。前者に検地帳、皆済目録、宗門人別帳など。▼ほかに「御林御巣鷹山立木諸入用書上帳扣」「乍恐以書付奉願上候(酒造株譲渡に付)」などもある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 同家の当館所蔵資料は、原本の「黒澤丈夫家文書」(P8205)がある。ほかに同じ乙父の近世資料として、県史複製資料「浅香安恵家文書」(H45-3-2近世)などがある。また、図書に『近世山村地域史の研究』佐藤孝之著(吉川弘文館)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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