資料区分 県史複製
請求番号 H51-9-4近世
文書群名 神戸金貴家文書
伝存地 甘楽郡下仁田町本宿
出所 甘楽郡下仁田町 神戸金貴家
地名 甘楽郡西牧領/甘楽郡本宿村(延宝6年~)/甘楽郡本宿村(明治元年~)/甘楽郡本宿村(明治4年~)/甘楽郡本宿村(明治6年~)/甘楽郡西野牧村本宿(明治8年~)/甘楽郡西野牧村本宿(明治9年~)/北甘楽郡西野牧村本宿(明治11年~)/北甘楽郡本宿村(明治15年~)/北甘楽郡西牧村大字本宿(明治23年~)/甘楽郡西牧村大字本宿(昭和25年~)/甘楽郡下仁田町大字本宿(昭和31年~現在)
旧支配 徳川氏代官支配(天正年間)/幕府領代官・関東郡代支配 (慶長8年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年10月~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 西牧領名主、本宿村名主、甘楽郡黒川村・恩賀村・入山村兼帯名主、西牧関所守、本宿村上組名主、甘楽郡恩賀村・入山村兼帯名主、本宿村肝煎名主戸長兼、本宿村戸長、北甘楽郡会議員、西牧村長、西牧村会議員など
歴史 神戸家の遠祖は、北条三郎貞氏で、初め箱根に居住し、後に伊勢国神戸に転住、子孫の孫十郎貞家は武者修行のため関東へ下り、その際に神戸を苗字にしたとされる。▼その後、貞家は神戸左門と改め、本宿村の隣村である藤井村(現下仁田町)に居住した。▼左門の長子の五左衛門は、藤井村之神戸家本家を継ぎ、文禄2年(1593)には西牧(藤井)関所の関所守に任命され、名主役も兼務したらしい。▼左門の次子の金左衛門(神戸金貴家の祖)は、本宿村に分家し、文禄3年には藤井村の五左衛門以外の他の2名の名主とともに西牧関所の関所守に任命され、名主役も兼務した。▼西牧関所守となった藤井村の五左衛門及び金左衛門など4名は、徳川氏の直轄領であった本宿村を含む西牧領を分担して行政事務を取り扱ったと考えられる。▼延宝6年(1678)、西牧領に石高制検地が施行され、それ以降、西牧領は大平村・坂詰村・森平村・藤井村・本宿村・黒川村・根小屋村・矢川村・漆萱村・芦野平村・三ツ瀬村・市野萱村(以上、下仁田町)・恩賀村・入山村(以上、現安中市)の14か村で構成されることになった。▼このうち本宿村の神戸金左衛門家は、延宝6年から寛政3年(1791)まで、本宿村・黒川村・恩賀村・入山村の名主を務めるとともに、西牧関所守も兼務した。▼寛政3年以後の同家当主は、公職から離れるが、安政5年(1858)に本宿村上組名主となる。▼明治維新後、金左衛門から金一郎と改名した同家当主は、明治8年(1875)まで本宿村戸長などを務めた。大正6年(1917)から同11年まで、同家当主篤太郎が西牧村村長を務めた。 ▼神戸家の家業は、江戸時代後期の安政2年の文書では、「農間酒造・太物・着物・穀物問屋并質屋渡世」を営んでいた。天保9年(1838)、同家に宿泊した幕府巡見使の一人の芳賀市三郎は、その日記に「至極之身上にて金左衛門といへるものなり、当時は無役にて平百姓なれとも、この村にかきらす最寄第一之物持なりと聞及ぬ」と金左衛門家について記している。▼明治維新以後も上記の諸経営を継続したようであるが、明治44年から大正8年まで本宿郵便局長を務め、大正9年から昭和6年(1932)頃までは中央生命保険相互会社の西牧代理店なども経営した。屋号は、「久保」または「丸本」である。
数量 849
年代 慶長19(1614)年~明治20(1887)年
構造と内容 年代のわかる最も古い文書は、慶長19(1614)年の「とらノ御年貢御成ケ割帳」、次いで元和3(1617)年の「高辻名寄并元和三巳御年貢御成ケ割帳」である。▼本文書群は、近世の本宿村名主文書(年貢関係など)、近代の本宿村戸長役場文書(廻章写など)、神戸家の私的文書(酒造業)などから成る。▼西牧領の村や西牧関所などの様子がわかる資料である。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 同家の当館所蔵資料は、原本の「神戸金貴家文書」(P8213)がある。ほかに神戸金史著「はるかなる父たちについて」(『蛃魚の会二十年の歩み』所収)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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