資料区分 県史複製
請求番号 H54-4-1近世
文書群名 中島公男家文書
伝存地 松井田町(現安中市)
出所 安中市松井田町五料 中島公男家
地名 上野国碓氷郡五料村(近世)/安中県碓氷郡五料村(明治4年・1871年7月)/群馬県碓氷郡五料村(明治4年10月)/熊谷県碓氷郡五料村(明治6年)/群馬県碓氷郡五料村(明治9年)/碓氷郡臼井町大字五料(明治22年)/碓氷郡松井田町大字五料(昭和29年・1954年)/安中市松井田町五料(平成18年・2006年~現在)
旧支配 安中藩領(慶長年間~)/安中県(明治4年・1871年7月)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月)/熊谷県(明治6年・1873年)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
歴史 村高は、「寛文郷帳」643石余、うち田方216石余・畑方426石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」ともに643石余。寛延2年(1749)の村明細帳(中島家文書)によると、村高643石余、反別83町1反余のうち田13町1反余・畑69町9反余、他に新田1町5反余・畑56町5反余、家数199・人数1,193、馬133・牛17、村内には鉄炮猟師8、木挽き1、大工2、桶屋1、鎌鍛冶1、医者1、山伏1がいた。幕末の改革組合村高帳によると、松井田宿寄場組合に属し、高643石余、家数128。村内には、お西(本家)・お東(分家)と呼ばれる両中島家があり、江戸初期より代々名主を務めた。文化3年(1806)、両中島家は火災で全焼したが、翌年お東が再建され、やや遅れてお西も再建された。両家とも五料茶屋本陣を務め、上段の間を備えた別座敷をもっている。明治11年(1878)明治天皇巡幸の際、お西が小休所となった。当村は、碓氷関所付要害村9か村の1つであり、要害改め村4か村の一つにも指定され、他領・他村の者の潜入を監視する役割を負わされていた。また、碓氷関所の北方、当村などの入会地にある入之湯温泉(現霧積温泉)は、同関所の要害遠囲い地内にあるため、他村の者の入湯には入湯通行手形が必要で、当村は他の入会村とともにその改めも行っていた。村内を中山道が通過し、坂本宿と松井田宿の中間に位置していた。茶釜石、夜泣き地蔵、妙義山の星穴を射貫いたという伝説の百合若大臣足跡石などが残っている。安政2年(1855)、安中藩郷学校の桃渓書院が字平に設立され、明治5年(1872)まで存続した。塾主の岩井友之丞を含めて教師3人、生徒は男子30名前後・女子数名程度であった(松井田町誌)。現在は、跡地に井戸のみが残る。
伝来 安中市松井田町五料 中島公男家
数量 107
年代 慶長6年(1601)閏11月~明治8年(1875)8月
構造と内容 西上州臼井郡五料村御縄打水帳(慶長6年)、〔田畑検地帳〕(寛永8年)、西上州碓氷郡五料村本畑検地帳(寛文4年)などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
先頭に戻ります。