資料区分 県史複製
請求番号 H54-6-2近世
文書群名 永井憲作家文書
伝存地 松井田町(現安中市)
出所 安中市松井田町坂本 永井憲作家
地名 上野国碓氷郡坂本村(近世)/安中県碓氷郡坂本村(明治4年・1871年7月)/群馬県碓氷郡坂本村(明治4年10月)/熊谷県碓氷郡坂本村(明治6年)/群馬県碓氷郡坂本村(明治9年)/碓氷郡坂本町大字坂本(明治22年)/碓氷郡松井田町大字坂本(昭和29年・1954年)/安中市松井田町坂本(平成18年・2006年~現在)
旧支配 安中藩領(慶長年間~)/安中県(明治4年・1871年7月)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月)/熊谷県(明治6年・1873年)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
歴史 村高は、「寛文郷帳」268石余、うち田方3石余・畑方265石余、「元禄郷帳」303石余、「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」ともに303石余。旧東山道沿いの集落を移住させ、他領からの移住者も募って、寛永2年(1625)地割りが完成し、中山道の宿場としての形態が整ったという(『松井田町誌』)。坂本宿は、37諸藩、臨時通行の大名を合わせると40藩以上が通行した。この他、日光例幣使や大名息女などの通行もあった。しかし、交通量の多さに比べ、宿としては規定の宿泊代しか取れない上、出迎え、見送り、献上物、道普請、宿内清掃、警備、食品・物資の購入、荷物運搬、伝馬の触れなどがあり、助郷村とは異なる苦労が多かった。坂本宿は、江戸へ34里、松井田宿まで2里15町余、軽井沢宿へ2里16町余。宿内往還の長さ463間3尺、宿内392間。街道の中央に4尺幅の用水が流れ、道路幅は南側3間4尺・北側3間5尺で、用水には17の石橋が架けられていた。家並みは、南側に79軒、北側に82軒の計161軒があった。南側の家並みは、道路の方向から道路に併行して家を建てると裏鬼門を向くことになるため、北へ少しずつずらして建てられている。各家は、間口3間半と7間に分かれ、7間が1軒家、3間半を半軒家と称し、宿御定人馬役負担の基準とした。1軒家の後ろには4反5畝ほど、半軒家にはその半分程の土地が家に並行して整然と地割りされ、ほとんど現存している。宿内は、上・中・下に分かれ、上宿の入口は京口、下宿の入口は江戸口と呼ばれ、それぞれ黒門があった。門番がいて明け六つに開門し、暮れ六つには閉門した。中宿には、本陣2軒と脇本陣4軒があった。文政8年(1825)には、旅籠屋が大15軒・中7軒・小33軒あり、他に造り酒屋1、酒屋・風呂屋・女郎屋・茶屋が各6軒、炭焼き・木挽き各3軒、米屋・水車・医者・あんま・表具師・魚屋・豆腐屋・材木屋・板割り・大工・下駄屋・呉服屋・仕立屋などがいた(『松井田町誌』)。鎮守は、京口の北外にある八幡神社。寺堂は、鎮守の南の阿弥陀堂、上宿と中宿の境の南に洞松寺がある。幕末の改革組合村高帳によると、松井田宿寄場組合に属し、高268石余、家数259。
伝来 安中市松井田町坂本 永井憲作家
数量 35
年代 元禄10年(1697)9月~明治3年(1870)4月
構造と内容 中仙道坂本町助郷帳(大助31か村、元禄10年)、差上申一札之事(髪結い床取締りに付、天明5年)、諸家様御家中御休泊帳(加賀藩他、天保8年)などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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