資料区分 県史複製
請求番号 H54-19-2近世
文書群名 山田計夫家文書
伝存地 松井田町(現安中市)
出所 安中市松井田町土塩 山田家
地名 上野国碓氷郡土塩村(近世)/安中県碓氷郡土塩村(明治4年・1871年7月)/群馬県碓氷郡土塩村(明治4年10月)/熊谷県碓氷郡土塩村(明治6年)/群馬県碓氷郡土塩村(明治9年)/碓氷郡細野村大字土塩(明治22年)/碓氷郡松井田町大字土塩(昭和29年・1954年)/安中市松井田町土塩(平成18年・2006年~現在)
旧支配 安中藩領(慶長年間~)/安中県(明治4年・1871年7月)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月)/熊谷県(明治6年・1873年)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
歴史 村高は、「寛文郷帳」438石余、うち田方165石余・畑273石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」いずれも501石余。検地は、慶長6年(1601)箕輪城主井伊直政が行い、後に安中藩主水野元綱によって寛文検地が行われた。寛文検地の際、その元杭となったのが、当村奥の九十九川(近世期は「すくも川」)源流近くにある五郎の大杉であったと伝えられている(樹齢600年以上)。天保12年(1841)の反取り調べをみると、上田1石8升・中田8斗8升・下田6斗9升・下々田5斗2升・新下田4斗5升であった。屋敷年貢は永225文、畑年貢は上畑永200文・中畑永150文・下畑永100文・下々畑永63文・新下畑永70文・新下々畑永58文であった(『松井田町誌』)。道路は千ヶ滝道と呼ばれ、村を東西に貫き、道添と千ヶ滝に信濃坂が2か所あり、松井田丘陵を南側に越えて高墓に至る。この道は、旧東山道と伝えられている。慶応2年(1866)の人数740人のうち、男392人・女348人、家数189、馬60(『松井田町誌』)。当村は、碓氷関所のうち、要害山常廻り場所内に位置するため、村民は関所役人の道案内の他、不審者の抜け道通行を監視し防ぐ役目を負っていた(後閑家文書)。神社は神明宮、寺院は曹洞宗三室山乾窓寺。同寺は、延徳2年(1490)の開山で、慶安2年(1649)朱印地62石余を与えられた。幕末の改革組合村高帳によると、松井田宿寄場組合に属し、高438石余、家数189。
伝来 安中市松井田町土塩 山田家
数量 16
年代 享保10年(1725)3月~寛政5年(1793)1月
構造と内容 売渡シ申山手形之事(運上銭503文の山、金4両2分、享保10年)、以書附申上候御事(入之湯への湯治男女の通行改め方に付、寛延2年)、御関所遠御囲御見分道筋御案内覚之事(寛政4年)などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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