資料区分 県史複製
請求番号 H67-1-4近世
文書群名 平形徳右衛門家文書
伝存地 吾妻郡高山村中山
出所 吾妻郡高山村 平形徳右衛門家
地名 群馬郡中山村/西群馬郡中山村/西群馬郡高山村大字中山/吾妻郡高山村大字中山
旧支配 白井藩領/大胡藩領(慶長5年)/幕府領(慶長19年)/旗本領(三給:向井氏・本多氏・都木氏、元禄15年)・幕府領(三国街道沿い田中組・元組・判形組の3組)/旗本領(四給:向井氏・本多氏・都木氏・山下氏、三国街道沿い3組を含む、文化8年~)/前橋県(明治4年~)/群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年)/群馬県(明治9年)
役職等 中山宿役人惣代、問屋
歴史 近世の中山村の村高は「寛文郷帳」で1863石余のうち田方510石余・畑方1352石余、「元禄郷帳」1877石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1996石余。▼幕末の改革組合村高帳では白井村寄場組合に属し、高1877石余・家数168。▼文化8年以降、中山村は6組に組分けされ、田中組・元組・判形組(幕府領分)は旗本山下氏が引き継ぎ、五領組は向井氏、原組は本多氏、和田組は成瀬氏が支配し、幕末まで旗本4氏が支配した。▼中山宿は慶長17年(1612)から三国街道の宿場となり、寛永13年(1636)本宿西方1㎞に新田宿が置かれ、平形家は本陣3家の内の1家(新田宿・新宿)で、名主と問屋を兼帯した。▼正保年間(1644~1648年)に問屋を開き、本陣3家が交替で問屋を務めた。
数量 51
年代 万治2(1658)年~明治7(1874)年
構造と内容 年代のわかる最も古い文書は、万治2(1658)年の「真田伊賀守御領分(吾妻郡79カ村高書上)」「真田伊賀守御領分(利根郡95カ村高書上)」、次いで寛文3(1663)年の「真田伊賀守新御検地扣(吾妻郡79カ村)」「真田伊賀守新御検地扣(利根郡95カ村)」である。▼「中山宿役人惣代問屋徳右衛門」という差し出しのある文書がある。▼三国街道中山宿に関する文書が多く、佐州奉行(佐渡奉行)の通行に関する文書もある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第3集、インターネット検索目録
関連資料 当館には、同村の別の平形家の資料として、原本の「平形作太郎家文書」(P0904)、県史複製資料の「平形作右衛門家文書」(H67-1-3近世・H67-1-1近現)がある。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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