資料区分 県史複製
請求番号 H87-2-1近世
文書群名 石原章令家文書
伝存地 笠懸町(現みどり市)
出所 みどり市笠懸町阿左美・石原家
地名 上野国新田郡阿左美村/前橋県新田郡阿左美村、栃木県新田郡阿左美村(明治4年)/群馬県新田郡阿左美村(明治9年)/新田郡笠懸村大字阿左美(明治22年)/みどり市笠懸町阿左美(平成18年・2006年~現在)
旧支配 初め幕府領/寛文期(1661~1673)旗本小栗氏領/のち再び幕府領/慶応3年(1867)前橋藩領/明治4年(1871)前橋県、栃木県/明治9年第二次群馬県
歴史 村高は、「寛文郷帳」1,041石余のうち田方209石余・畑方831石余、「元禄郷帳」1,202石余、宝暦9年(1759)検地では1,624石余(赤石家文書)、「天保郷帳」1,773石余、「旧高旧領」1,771石余。なお、阿佐村と阿左村新田は、ともに当村の新田として開発され、当村の持ち添えであった。当村は、足尾銅山街道桐原宿の定助郷村で、大原宿までの継送り人馬を差し出し、勤め高は天保14年(1843)当時1,748石余。また、御定め賃金は御用銅一個(平均14貫)につき永7文1分。桐原宿から大原宿まで道程約2里余(赤石家文書)。一時中山道宿の増助郷が触れ当てられたが、銅山役との二重勤めを理由に免除願いを差し出し免除された。安永5年(1776)、10代将軍家治が日光東照宮大社参の際、日光街道小金井宿に、下役18人・人足45人を差し出した。寛政8年(1796)深谷宿への加助郷は、高100石につき20人の割で192人を差し出した。さらに文化元年(1804)深谷宿の加助郷として19人を差し出した(『笠懸村誌』)。慶応3年(1867)の村明細帳によると、田方13町8反余・畑177町1反余。年貢米76石余・年貢永129貫余。家数195・人数777(粟田家文書)。鎮守は、宮久保の生品神社で、元禄7年(1964)の棟札に「本主藤生一門並百余人氏子中」とあり、当初は藤生氏一門の氏神として祭祀されたものであろう。その北方の赤松林の山頂に浅海八幡宮があり、仲・北・桜塚の村民の鎮守となっている。寺院は、真言宗日輪山南光寺、浄土宗高松山長寿院天竜寺、黄檗宗鳳陽山国瑞寺がある。幕末の改革組合村高帳には、本町村寄場組合に属し、阿佐村・阿佐村新田を合わせた高2,772石余、家数120。
伝来 みどり市笠懸町阿左美・石原家
数量 2
年代 文政3年(1820)8月~安政5年(1858)12月
構造と内容 乍恐以書付奉願上候(頼母子滞り出入、文政3年)、反別名寄本途帳(安政5年)がある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
先頭に戻ります。