資料区分 |
県史複製 |
請求番号 |
H88-1-9近世 |
文書群名 |
長澤郁男家文書 |
伝存地 |
大間々町(現みどり市) |
出所 |
みどり市大間々町大間々・長澤家 |
地名 |
上野国山田郡大間々村/岩鼻県山田郡大間々村(明治元年)/栃木県山田郡大間々村(明治4年)/群馬県山田郡大間々村(明治9年)/山田郡大間々町大字大間々(明治22年、大間々村・桐原村が合併)/みどり市大間々町大間々(平成18年・2006年~現在) |
旧支配 |
初め伊勢崎藩領/寛文元年(1661)館林藩領/天和2年(1682)幕府領/延享4年(1747)前橋藩領/明和6年(1769)幕府領/安永8年(1779)出羽松山藩領/明治元年(1868)岩鼻県/明治4年栃木県/明治9年第二次群馬県 |
歴史 |
村高は、「寛文郷帳」で大間々新田村と見え、畑方520石余、「元禄郷帳」・「天保郷帳」・「旧高旧領」ともに680石余。正保2年(1645)の年貢割付状(高草木家文書)によると、耕地115町余は全て畑地で、下畑・下々畑がその6割余りを占める。寛文9年(1669)の検地帳(高草木家文書)では、耕地は178町に増えているが、畑地のみで、下々畑・砂畑で57%を占めている。家数251。安永9年(1780)の村銘細帳(高草木家文書)には、百姓以外に鍛冶屋3人・左官2人・大工2人・絵師1人・仏師1人・石切1人・紺屋7軒・医師5人とある。文政11年(1828)の農間渡世調査(高草木家文書)では、689戸のうち398戸が何らかの農間渡世の仕事をもち、そのうち20%近くが酒造並居酒・居酒・大小拵え研ぎ屋・髪結い・湯屋・煮売り・腰物類売買・質屋などの風俗的営業であった。延享4年(1747)まで、足尾銅山街道が村の中央を通り、利根・沼田方面から片品川・根利川に沿って赤城山北麓の根利宿を経て大間々村に至る根利道(大間々街道)もある交通の要衝であり、在郷町として賑わっていた。桐原村から分郷後の慶長年間(1596~1615)には、町割とともに4・8の六斎市(雑市)を開いてきたが、寛永20年(1643)12月、桐原村が大間々雑市の前日に新市を開いたり、新堀をつくって大間々村への飲水を回さなかったため、翌同21年と正保2年(1645)の2度にわたって上訴している。万治元年(1658)、当村の星野庄右衛門が個人で生糸・絹の開市を企て、前橋・伊勢崎・桐生などの商人55人へ進物を贈り、協力を得て自宅前に絹市を開いた。その結果、伊勢崎・前橋・藤岡などから商人が集まり、絹糸以外の商人も絹市に集まったため六斎市が衰微し、村役人は代官へ訴えたが、その後和解し、絹市は六斎市と合流して繁昌した(『山田郡誌』)。そのため桐生新町の絹市と利害が対立し、桐生新町は享保16年(1731)に従来の5・9の市日を大間々絹市の前々日の3・7に改めた。宝暦4年(1754)、当村は新市日を2・6とし、4・8と合わせて十二斎市としたが、桐生新町や大原村の反対にあい、新市を停止し、元の六斎市とした(『桐生織物史』)。その後、桐生絹市が繁昌し、当村の六斎市は桐生織物業の原料である生糸を扱い、周辺農村への雑市機能をも果たし、1丁目から6丁目まで交替で開市した。文政11年(1828)、当村を寄場とする山田郡11か村と勢多郡23か村の御改革組合村が結成され、関東取締出役より「大間々町」の呼称が認められた。その後、大前田村ほか11か村が大間々町寄場組合に加わり、46か村の組合村となった。幕末の改革組合村高帳では、当町ほか46か村組合の寄場村となっており、高680石余、家数689。 |
伝来 |
みどり市大間々町大間々・長澤家 |
数量 |
42 |
年代 |
弘治2年(1557)11月~明治27年(1894)10月 |
構造と内容 |
某連署判物(長沢次郎左衛門尉へ山上・室沢の地の宛行)(弘治2年)、一札之事(酒蔵・酒名代・道具売り渡し、享保14年)、覚(羽州松山領分凶作につき金2両2分請取、天保6年)、などがある。 |
検索手段 |
『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録 |
関連資料 |
参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など |
利用上の留意点 |
本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。 |