資料区分 県史複製
請求番号 H88-2-5近世
文書群名 藤生素三家文書
伝存地 大間々町(現みどり市)
出所 みどり市大間々町桐原・藤生家
地名 上野国山田郡桐原村/岩鼻県山田郡桐原村(明治元年)/栃木県山田郡桐原村(明治4年)/群馬県山田郡桐原村(明治9年)/山田郡大間々町大字桐原(明治22年、大間々村・桐原村が合併)/みどり市大間々町桐原(平成18年・2006年~現在)
旧支配 承応3年(1654)村の北部を分村して二軒在家村とする。初め伊勢崎藩領/寛文元年(1661)館林藩領/延宝8年(1680)幕府領/明治元年(1868)岩鼻県/明治4年栃木県/明治9年第二次群馬県
歴史 村高は、「寛文郷帳」で上桐原村と見え、畑方219石余、「元禄郷帳」354石余、「天保郷帳」・「旧高旧領」ともに397石余。慶長3年(1598)の桐生領惣永辻改め帳に「一、永七貫八百四拾壱文 桐原村」と記載されている(『山田郡誌』)。寛永20年(1643)12月、当村は大間々雑市の前日に新市を開いたり、30年以前から大間々村が当村からの飲用水導入を許されていたにもかかわらず新堀を掘って大間々村への飲用水を回さなかったため、翌同21年と正保2年(1645)の2度にわたって大間々村によって上訴された(高草木家文書、『山田郡誌』)。延享4年(1747)、大間々村が幕府領から前橋藩領になったため、これまで大間々村の高草木与四右衛門家(現高草木浩平家)に置かれていた足尾御用銅蔵を幕府領の桐原村に移した(高草木家文書、桐原郷蔵文書)。その結果、銅山街道は手振山の北西方の燧坂から瀬戸ヶ原の台地を通り、円入坂を下って当村に入ったものと思われ、桐原宿と呼ばれた。寛政9年(1797)の品々書上帳(桐原郷蔵文書)によると、当村は天水場で用水堀がなく、2か所の溜池から引水して田植えを行い、農業のほか、男は秣取り、女は布木綿・養蚕稼ぎをし、市場がなく、御用銅蔵はあるが郷蔵はなかった。文政10年(1827)、大間々村が当村含む山田郡11か村・勢多郡23か村の御改革組合の寄場となった際、当村ほか10か村は独自の組合村を作ろうとした(高草木家文書)。天保14年(1843)の農間渡世調査(高草木家文書)によると、当村の戸数130のうち大部分は5反以下の土地所有状況であり、農業のほか、織屋15・糸絹買い継ぎ1・酒造稼ぎ1・その他小商い6とある。弘化3年(1864)、以前から要望があった郷蔵の設置を具体化した。村の積立金に加え、手振山の立木・葛根売上金をもって郷蔵建設資金とすることを村中で議決した。翌弘化4年、村内の百姓藤生甚助の土蔵を60両で買い取り、世音寺に敷地代3両を支払い、その他合計13両余で現在地へ設置した(桐原郷蔵文書)。郷蔵は、縦2間半・横3間半の切妻屋根の土蔵で、内部は一部が中二階で栗材を腰板に使用している。幕末の改革組合村高帳では、大間々町寄場組合に属し、高354石余、家数60。
伝来 みどり市大間々町桐原・藤生家
数量 310
年代 延享3年(1746)4月~明治11年(1878)
構造と内容 上野国山田郡桐原村原地新田検地帳(延享3年)、天保三辰年分反物代金勘定取調帳(天保4年)、絹市由来(天保11年)などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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