資料区分 県史複製
請求番号 HA-7-2中世
文書群名 河田照子家文書
伝存地 福島県福島市
出所 福島県福島市 河田照子家文書
役職等 厩橋城代・沼田城代
歴史 河田長親(かわだながちか、??1581)は戦国-織豊時代の武将。通称は豊前守。近江(滋賀県)出身で、永禄2年(1559)上杉謙信の側近となる。永禄年間の北条氏康との関東での戦いでは厩橋城及び沼田城城代を務めた。のち越中(富山県)魚津城主として一向一揆とたたかう。謙信没後は松倉城主として上杉景勝にしたがい、織田信長の軍勢とたたかった。天正9年(1581)3月24日死去。子孫は上杉家家臣として存続。
数量 23
年代 永禄5年カ(1562)~延享5年(1748)
構造と内容 主に河田豊前守長親に宛てられた文書。『群馬県史資料編』には次の二点が掲載。(永禄7年(1564))9月6日長尾景長書状は、足利・館林両城主の長尾但馬守景長が河田豊前守(長親)に対し、関宿近辺の北条勢の様子や、厩橋の北條高広が西上州へ向けて進発するなら景長も出陣するつもりであることなどを伝えている。(永禄12年(1569))4月21日三楽斎道誉(太田資正)・梶原政景連署覚書は、太田資正・梶原政景父子が越相都鄙の国分の事など6カ条を河田豊前守(長親)に対し申し入れている。太田氏は武蔵岩付城主であったが、小田原北条氏により追放されていた。河田長親は、上杉謙信への太田氏の取り次ぎ役であった。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
利用上の留意点 本資料はマイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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