資料区分 県史複製
請求番号 H88-8-1近世
文書群名 覚成寺文書
伝存地 大間々町(現みどり市)
出所 みどり市大間々町上神梅・覚成寺
地名 上野国勢多郡郡上神梅村/前橋県勢多郡上神梅村、群馬県勢多郡上神梅村(明治4年)/熊谷県勢多郡上神梅村(明治6年)/群馬県勢多郡上神梅村(明治9年)/南勢多郡上神梅村(明治11年)/南勢多郡黒保根村大字上神梅(明治22年)/勢多郡黒保根村大字上神梅(明治29年)/山田郡大間々町大字上神梅(昭和33年)/みどり市大間々町高津戸(平成18年・2006年~現在)
旧支配 寛文11年(1671)、神梅村が上神梅村と下神梅村に分村して成立/初め館林藩領/のち幕府領/明治元年(1868)前橋県/明治4年第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年第二次群馬県
歴史 村高は、「元禄郷帳」・「天保郷帳」・「旧高旧領」ともに267石余。正徳6年(1716)の村方覚書帳(福田家文書)によると、田畑・屋敷69町3反のうち、田4.8%・畑89.8%・屋敷5.2%、百姓屋敷96、人数は男243・女200。男子は耕作の他駄賃取り・赤城山薪取りをして大間々へ売り、女は機織りをした。村の中央を足尾銅山街道が通り、北の宿廻村から下神梅村に通じる道と、当村から渡良瀬川を渡って塩原村へ通じる道があった。村の北部の深沢地区には、深沢の角地蔵がある(昭和60年町史跡)。これは、宝暦2年(1752)に正円寺28世盈仙が、天正7年(1579)の合戦で戦死した宿廻村の阿久沢氏や沢入村の松島氏一族の冥福を祈って地蔵堂を建立する際、石工に仏像を彫らせたが、不思議なことが起こるため石工が逃げ出し、頭部が四角に残ったといわれているもので、別名「間違い地蔵」とも呼ばれている。幕末の改革組合村高帳によると、当村は水沼村寄場組合に属し、高267余、家数64。
伝来 みどり市大間々町上神梅・覚成寺
数量 5
年代 明和9年(1772)2月~元治元年(1864)3月
構造と内容 質地山証文之事(金1両1分、10年季、明和9年)、質地山証文之事(金1両2分、10年季、安永4年)、入置申詫一札之事(覚成寺境内の石灰山不埒一件、安政6年)、人足賃銭帳(元治元年)、〔人馬継立て先触〕(子年)がある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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