資料区分 県史複製
請求番号 H2-80-2近現
文書群名 彦部敏郎家文書
伝存地 桐生市
出所 桐生市広沢町 彦部敏郎家
地名 山田郡広沢村(近世初期)//上広沢村・中広沢村・下広沢村に分村(寛文年間1661年~元禄年間1704年)、以降ここは下広沢村//岩鼻県山田郡下広沢村(明治元年・1868年)/栃木県山田郡下広沢村(明治4年10月)/群馬県山田郡広沢村(明治9年、上広沢村・中広沢村・下広沢村が合併)/山田郡広沢村大字広沢(明治22年)/桐生市広沢町(昭和12年~現在)
旧支配 〔近世・下広沢村〕旗本榊原氏領・石尾氏領の相給(近世初期)/旗本榊原氏領と幕府領の相給(宝永6年・1709年)/旗本榊原氏領・鳥居氏領の相給(宝暦13年・1763年)/岩鼻県(明治元年・1868年)/第一次群馬県(明治4年10月)/熊谷県(明治6年)/第二次群馬県(明治9年)
歴史 〔近代・広沢村など〕明治9年(1876)、上広沢村・中広沢村・下広沢村の3か村が合併して成立。明治24年、広沢村・一本木村の両村が合併して成立。明治24年の戸数541、人口は男1,540・女1,641、学校1・水車場9。民業は、初め農業の傍ら養蚕・機織りに従事していたが、明治中期に飯塚春太郎はインド向けタフタ織りを創案、藤生佐吉郎は木製の織機・ジャガードを考案・設備し、彦部駒雄は桐生織物の全盛期を現前させるなど、昭和前期には485戸の業者となり、職工数2,043人、生産金額300万円余の機業地へと発展した。
伝来 桐生市広沢町 彦部敏郎家
数量 20
年代 明治16年(1883)6月~昭和14年(1939)7月
構造と内容 雇人之証(男、1か年、給金30円、明治33年)、〔工女台帳〕(明治45年)、昭和五年事業成績 第十八号(昭和6年)、などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第4集、インターネット検索目録
関連資料 当館所蔵の同家の複製資料として「彦部敏郎家文書」(H2-8中世)、「彦部敏郎家文書」(H2-80-2近世)がある。参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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