資料区分 県史複製
請求番号 H10-7-2近現
文書群名 半田襄次家文書
伝存地 安中市
出所 安中市原市 半田襄次家
地名 上野国碓氷郡原市村/安中県碓氷郡原市村(明治4年・1871年7月)/群馬県碓氷郡原市村(明治4年・1871年10月)/熊谷県碓氷郡原市村(明治6年)/群馬県碓氷郡原市村(明治9年)/碓氷郡原市町大字原市(明治22年)/碓氷郡安中町大字原市(昭和30年・1955年)/安中市原市(昭和33年・1958年~現在)
旧支配 安中藩領(慶長年間~)/安中県(明治4年・1871年7月~)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月~)/熊谷県(明治6年・1873~)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
歴史 〔近代・原市町〕村高は、「寛文郷帳」829石余のうち田方225石余・畑方603石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」ともに856石余。当村は、宝永7年(1710)より中山道松井田宿の定助郷を勤めた。明和7年(1770)の村書上帳(櫻井家文書)によると、家数200・人数1,109、馬40。慶応3年(1867)の村明細帳(仁井家文書)によると、家数258・人数1,043(男542・女501)。幕末の改革組合村高帳では、安中宿寄場組合に属し、高829石余、家数234とある。名主は、磯貝(五十貝)家が世襲した。鎮守は、榎下神社。寺院は、曹洞宗久昌寺、真言宗万福寺、同真光寺、同観乗院、同長泉寺の5か寺があったが、このうち長泉寺は明治4年(1871)廃寺となった。万福寺は、「旧高旧領取調帳」によると寺領27石があった。真光寺境内には時の鐘(市重文)がある。地内中山道沿いに安中原市の杉並木がある。明治6年(1873)、真光寺を仮用として原市小学校を開設した。「上野国郡村誌」によると、生徒数は男78・女21。同11年、組合製糸の碓氷社が設立され、生糸の改良と販売を行った。明治13年の組合員数は、339人。この他、碓氷共立商店などの金融機関も設立され、安中旧宿と対抗する経済上の地位を築いていった(『安中市誌』)。同7年、米国から帰国した新島襄は、地内にもキリスト教を布教し、同18年原市教会が創設された。同19年には信徒で県会議員であった宮口二郎により碓氷英学校が設立された。明治26年、第7生産会社を前身とする原市銀行、同33年に碓氷倉庫会社が設立され、倉庫業務と生繭乾燥を行っていた。碓氷社は、明治末年には組合員数180、6県下に及び、原市町も碓氷社とともに発展したが、昭和12年(1937)本社を高崎に移転後、同所は原市工場となり、昭和30年に業務を縮小し群馬蚕糸製造となり、同町の衰退につながった。
伝来 安中市原市 半田襄次家
数量 39
年代 明治17年(1884)9月~昭和11年(1936)10月
構造と内容 会堂建築并寄附金簿(明治17年)、教会費収入簿(明治19年)、教会記事録(明治32年)、などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第4集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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