資料区分 県史複製
請求番号 H42-1-1(2)近現
文書群名 吉井町郷土資料館文書2(旧多胡村役場関係)
伝存地 吉井町(現・高崎市)
出所 吉井町郷土資料館(現・高崎市立吉井郷土資料館)
地名 多胡郡大沢村・東谷村・塩村・神保村・高村・多胡村(近世)/多胡郡多胡村(明治22年~、近世の村名は大字となる)/多野郡多胡村(明治29年~)/多野郡吉井町(昭和30年~)/高崎市吉井町(平成21年~)
旧支配 〔全体〕吉井藩領(天正18年~、菅沼氏)を経て幕府領・旗本領・御三卿清水家領等(近世)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)▼〔大沢〕〔東谷〕吉井藩領(天正18年~)/幕府領/御三卿清水家領(文政7年~)/幕府領(安政4年~)後略▼〔塩〕吉井藩領(天正18年~)/幕府領(慶長15年~)/旗本倉橋領(寛永2年~)/幕府領と旗本溝口領(天和3年~)/うち旗本溝口領352石余りは幕末まで/残りの幕府領121石余りは御三卿清水家領(文政7年~)を経て幕府領(安政4年~)後略▼〔神保〕吉井藩領(天正18年~)/幕府領(慶長15年~)/旗本倉橋領(寛永年間)/幕府領(寛文4年)/旗本溝口領(貞享元年~)後略▼〔高〕吉井藩領(天正18年~)/幕府領/御三卿清水家領(文政7年~)/幕府領(安政4年~)後略▼〔多胡〕吉井藩領(天正18年~)/幕府領(慶長15年~)/幕府領と旗本領(門奈・川村・野呂氏)の相給/幕府領が御三卿清水家領(文政7年~)/一村が幕府領(安政4年~)後略
歴史 多胡地区(旧・多胡村)は吉井町地域の南部に位置する。南北に長く、その三方は山地となっている。地区の大半は山地または丘陵性である。最高位は藤岡市日野地区と接する大沢山で約700m。▼大沢川(元禄15年上野国絵図に記載)が南西から北西に流れており、吉井地区で鏑川に合流する。▼近世は多胡郡大沢村(畑方77石余)・東谷村(179石余)・塩村(474石余)・神保村(710石余)・高村(57石余)・多胡村(291石余)があった(元禄郷帳による)。▼それぞれの村は旗本領や幕府領であったが、幕末の改革寄場組合では吉井宿を寄場とする多胡郡27か村の組合に属していた。▼多胡の地名は和銅4(711)年に多胡郡が設置されたことにはじまる。▼高は地形から、神保は多胡郡の鎮守辛科神社(高崎市指定史跡)の神領であったことから、塩は塩分を含む泉のあることから、名付けられたものであろう。▼大沢川上流部の大沢・東谷は同一だったが、大沢が分離したといわれている。▼大沢では稲作は全く行われていなかった。▼前述の辛科神社、大永2年(1522)創建の公田院仁叟寺(高崎市指定重要文化財)等がある。▼塩村の橋爪祇?(寛政8年生)、その養子で養蚕の先進地奥州伊達郡で学んだ東作(文化7年生)により、多胡地区では蚕糸業が盛んになったという。▼明治11年、上流に塩村外2ヶ村連合(大沢村・東谷村)、下流に神保村外2ヶ村連合(高村・多胡村)があった。▼明治12年、塩村、大沢村・東谷村の連合、神保村・高村の連合、多胡村に分離した。▼明治17年に塩村外5ヶ村連合、明治22年に多胡村が成立した。▼塩村外5ヶ村連合戸長の向井周弥は、塩出身で明治22年に初代村長に就任。要職を歴任する一方、多くの日記・自伝・手記を残した(H42-13-1近現「向井周治家文書」)。▼2代目村長は大沢出身の大澤良太郎(名主七郎治の子)で、5代目は彼の息子大澤要八である(H42-15-1近世「大沢要八家文書」)。
伝来 吉井町郷土資料館(現・高崎市立吉井郷土資料館)収蔵。
数量 187
年代 明治6年(1873)~昭和20年(1945)頃
構造と内容 明治22年成立の多胡村と、それ以前に当地域にあった連合戸長役場の行政文書である。▼明治6年の「〔物産取調べ書上帳綴〕」(13/21)をはじめ、御用留、通達、報告書、諸願伺届書綴込等がある。▼疫病(明治15年のコレラ、明治30年の赤痢等)、水害(明治43年)、稲作の害虫駆除、与志井銀行(後に上州銀行・群馬銀行の吉井支店)、学校・教育、産業組合・農会・青年会・国防婦人会・帝国在郷軍人会・軍友会等の各種団体、多胡碑雨覆堂に関する文書等がある。▼「村治概要」(10/22)は明治6年から昭和初年の村況報告書である。▼「戦災ニ依ル疎開学児学籍簿」(6/23)は東京等から疎開した児童の学籍簿である。▼「青年会ニ関スル書類」(9/15)には、大正10年に宮城(皇居)等諸機関を参観した報告書がある。▼「産業組合ニ関スル書類」(14/1)には甘楽社井池組定款等が含まれている。▼「秣場事件経過録」(12/8)等は吉井町地域南部の大沢山・牛伏山(大野秣場)・小梨山・八束山にあった秣場に関する文書である。これらの秣場は天正18年に菅沼氏が吉井藩主として入封した時代に設定されたと言われる。「吉井領」の村々で利用し、それらの村が吉井藩領でなくなっても吉井宿の堀越家が山銭を管理し、吉井藩へ上納していた(PF9003『上野吉井藩記録』の8/57「上州御領分村々明細帳」)。▼本資料は「吉井町郷土資料館文書1」(H42-1-1(1)近現)や「向井周治家文書」(H42-13-1近現)等とともに、多胡地区(旧・多胡村)の様子がわかる貴重な史料群である。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第4集、インターネット検索目録
関連資料 当館の収蔵資料に、絵図として明治6年の壬申地券地引絵図「多胡村」(A0181AMA 758、国重文)等。▼多胡地区の近代史料として、明治22年成立の多胡村初代村長向井周弥の日記・手記類の「向井周治家文書」(H42-13-1近現)。▼旧多胡地区の役場文書として「吉井町郷土資料館文書1」(H42-1-1(1)近現)・「吉井町郷土資料館文書2」(H42-1-1(2)近現)等。▼多胡地区の近世文書として「神保金光家文書」(H42-10-1近世)、「大沢要八家文書」(H42-15-1近世)等。▼ほかにマイクロフィルム収集資料として「上野吉井藩記録」(PF9003)。▼図書として『吉井町誌』『多野藤岡地方誌』『群馬県多野郡誌』多胡地区の項、『郡村誌』多胡村ほか各村の項、『島高堅自記 多胡旧記・吉井町由来覚書』等。▼また、当資料と同じく「H42-」で請求番号が始まる県史収集複製資料は、旧・多野郡吉井町に伝来した資料である。▼参考文献:上記の他に『角川日本地名大辞典10群馬県』『群馬県史』『群馬県姓氏家系大辞典』等。
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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