資料区分 県史複製
請求番号 H42-1-2近現
文書群名 井上いね家文書
伝存地 吉井町(現・高崎市)
出所 多野郡吉井町(現・高崎市) 井上いね家
地名 多胡郡多胡村(近世)/多胡郡多胡村多胡(明治22年~)/多野郡多胡村多胡(明治29年~)/多野郡吉井町多胡(昭和30年~)/高崎市吉井町多胡(平成21年~)
旧支配 吉井藩領(天正18年~、菅沼氏)/幕府領(慶長15年~)/幕府領と旗本領(門奈・川村・野呂氏)の相給/幕府領が御三卿清水家領(文政7年~)/一村が幕府領(安政4年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 名主、戸長、緑野多胡郡書記、群馬県会議員等(井上孝三郎)
歴史 井上孝三郎(天保7年生、明治29年没)は多胡村の名主、戸長、県会議員等を務めた人物である。▼明治5年の学制発布に際し、大沢七郎治、神保真澄、向井周弥らと協力し、神保の仁叟寺を借用し神保小学校(現・多胡小学校)を創立した。▼後に神保村に井池小学校を新設し、校務を担当。後、緑野多胡郡書記、県会議員等を歴任。▼生糸会社を設立し、甘楽社理事となった(『多野藤岡地方誌』等に井上孝三郎の項がある)。▼井上健治は孝三郎の甥で養子となった。▼井上家は戦国期に信濃国より多胡館に移住したという。帰農し、江戸期を通じて名主を務めた。▼三右衛門(文政8年没)は藤岡宿との往還輸送の出入りに際し、吉井近郷48か村惣代となり、また、養子の幸右衛門の代の文政年間に、吉井藩の山林払い下げにからむ越訴事件が起きた時の指導者であったという。▼その後、名主は同族の三左衛門が務め、その子が孝三郎である。▼甘楽社井池組は、明治19年に井上孝三郎の尽力により大字神保に設置された井池社と甘楽社を、明治25年に合わせて創業された製糸工場である(井池組)。明治43年、甘楽社井池組と改称。▼多胡村は、明治22年に大沢川(元禄15年上野国絵図に記載)の流域の多胡村、高村、神保村、塩村、東谷村、大沢村の計6か村が合併して成立した。▼神保小学校は設立の翌年、昔の庄名から井池小学校と改称、明治9年に分離して井池北小学校を神保村に、井池南小学校を東谷村に設置、後に統合された(現・高崎市立多胡小学校)。
伝来 井上家に伝来。
数量 21
年代 明治8年(1875)~明治30年(1897)
構造と内容 地域の行政・産業で活躍した井上孝三郎の家に伝わった文書である。地租改正、製糸工場の井池組、養蚕に関する資料(明治30年の「春蚕日誌」)等がある。▼井池組関係には、当地の多数の人々の名前が見られる。▼同志社設立に関し、湯浅次郎から届いた書類もある(1/10-1)。▼ほとんどが名士であった井上孝三郎、養子の健治の活動に関係する資料のようである。▼吉井町地域や多野郡の貴重な近代史料である。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第4集、インターネット検索目録
関連資料 当館の収蔵資料に、絵図として明治6年の壬申地券地引絵図「多胡村」(A0181AMA 758、国重文)等。▼多胡地区の史料として、明治22年に成立した多胡村の初代村長を務めた向井周弥の日記・手記類の「向井周治家文書」(H42-13-1近現)。旧・多胡村の役場文書として「吉井町郷土資料館文書1」(H42-1-1(1)近現)、「吉井町郷土資料館文書2」(H42-1-1(2)近現)等。▼多胡地区の近世文書として「神保金光家文書」(H42-10-1近世)、「大沢要八家文書」(H42-15-1近世)等。▼ほかにマイクロフィルム収集資料「上野吉井藩記録」(PF9003)、「旧多胡村役場文書」(PF9208)。▼図書として『吉井町誌』『多野藤岡地方誌』多胡地区の項、『群馬県多野郡誌』多胡村の項、『郡村誌』多胡村の項、『島高堅自記 多胡旧記・吉井町由来覚書』等。▼当資料と同じく「H42-」で請求番号が始まる県史収集複製資料は、旧・多野郡吉井町に伝来した資料である。▼参考文献:上記の他に『角川日本地名大辞典10群馬県』『群馬県史』『群馬県姓氏家系大辞典』等
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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