資料区分 |
古文書 |
請求番号 |
P8109 |
文書群名 |
高橋辰巳家文書 |
伝存地 |
藤岡市保美 |
出所 |
藤岡市 高橋辰巳家 |
地名 |
上野国緑野郡保美村/緑埜郡保美村(江戸時代~明治初年)/群馬県緑埜郡保美村(明治4年)/第十五大区第七小区(明治4年~11年)/熊谷県緑埜郡保美村(明治6年)/群馬県緑埜郡保美村(明治9年)/緑埜郡美九里村大字保美(明治22年)/多野郡美九里村大字保美(明治29年)/藤岡市保美(昭和29年) |
旧支配 |
旗本領(依田氏・加藤氏・伊東氏三給支配、寛文年間から)/岩鼻県(明治元年)/第一次群馬県(明治4年)/熊谷県(明治6年)/第二次群馬県(明治9年) |
役職等 |
文政年間に百姓代(富五郎)、組頭、(旗本加藤家知行分)名主、本郷村(加藤氏知行所)との兼帯名主や保美村旗本伊東家の年貢取立番、明治期に保美村戸長・副戸長(冨五郎、市蔵) |
歴史 |
【保美村】は、緑埜郡に属し神流川左岸と同川支流三名川流域に位置する村で、南西部の三ツ山に三ツ山城跡がある。同城は戦国時代に長井豊前守政実が居城した。▼村内には曹洞宗天陽寺がある。東部の低地を北に流れる神流川は上野国と武蔵国の国境であり、川筋が頻繁に変動した。▼
高橋家は北条氏康の平井城攻略の際に保美へ派遣され、村の中央に元屋敷を構えていたと伝わる。 |
伝来 |
藤岡市保美(緑埜郡保美村)に在住していた高橋家に伝来した文書群である。同家文書は、昭和50年には群馬県史編さん室近世史部会により調査が実施され、昭和57年には文書群全体のうち三分の二程度が当館に収蔵された。▼昭和60年には収蔵された分の文書(№1~236迄)を掲載した『群馬県立文書館収蔵文書目録3多野・藤岡地区諸家文書(1)』が刊行され、その部分の文書についてはすでに閲覧に供している。▼残りの文書はその後も高橋家に保管されていたが、平成29年に辰巳氏のご子息より今回新規閲覧公開になった分(文書№237~450迄)が新たに当館に寄贈され、今回の追加閲覧公開となった。 |
数量 |
444 |
年代 |
応仁2年(1468)<但し、江戸期の写し>~明治16年(1883) |
構造と内容 |
本文書群は、高橋辰巳家に伝来した江戸時代から明治時代前期までの旧保美村関係の村方(名主・戸長関係)文書である。高橋家の私的文書も若干含まれている。▼『群馬県立文書館収蔵文書目録3多野・藤岡地区諸家文書(1)』所収の「高橋家文書解題」によれば、保美村は旗本三給(依田家・加藤家・伊東家)支配の村であり、高橋家当主は天保5(1834)年には保美村三給のうち旗本加藤駒五郎知行所分の名主に就任している。その前後も村役人を務めており、そのため保美村の村方文書が同家に残されたと考えられる。▼
【第1次公開分】
寄贈された近世文書は、旗本加藤氏知行所内(保美村・本郷村)の名主役勤務に関連した公的な文書類といえる。そのうち、数量的なまとまりをあげると、年貢皆済目録・質地証文・金子借用証文などがある。▼家の経営などに関する文書としては、江戸期より「藤屋」の屋号で太物商いをしていたようで、関係の仕切状を若干見出すのみである。
▼【第2次公開分】
今回の追加分の文書の方が文政5(1822)年の水帳(検地帳)や数冊の宗門人別帳などを含み村方文書としては、基本的な文書が多く含まれている。▼但し、江戸時代の文書は、保美村のうち旗本加藤家知行分のみに関わるものが大部分である。 |
検索手段 |
「藤岡市保美 高橋辰巳家文書目録(追加分)」、インターネット検索目録、過去に公開されている高橋辰巳家文書については、『群馬県立文書館収蔵文書目録3多野・藤岡地区諸家文書(1)』所収の高橋辰巳家文書目録も参照のこと。 |
関連資料 |
同じ保美村の村方文書としては、「清水てつ家文書」(P8108)がある。清水家文書は『群馬県立文書館収蔵文書目録9藤岡市保美・清水家文書』として分類目録が刊行されている。清水家は保美村のうち旗本依田家知行所分の名主を務めた。 |
利用上の留意点 |
「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。 |