資料区分 古文書
請求番号 P8110
文書群名 片山寛寿家文書
伝存地 沼田市下沼田町
出所 沼田市 片山寛寿家
地名 利根郡下沼田村(江戸時代)/利根郡薄根村大字下沼田(明治22年~)/沼田市下沼田町(昭和29年~現在)
旧支配 沼田藩領(真田信幸、天正18年~)/幕府領代官支配(天和元年~)/沼田藩領(内藤氏、元禄6年~)/沼田藩領(本多正永、元禄16年~)/幕府代官支配 (享保15年~)/沼田藩領(黒田氏、享保17年~)/沼田藩領(土岐氏、寛保2年~)/沼田藩鎮撫(慶応4年4月~)/沼田県(明治4年7月~)/第一次群馬県(明治4年10月~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 利根郡下沼田村 名主・組頭など
歴史 下沼田村の村高は、「寛文郷帳」では179石余のうち田方100石余・畑方78石余、「元禄郷帳」354石余、「天保郷帳」351石余、「旧高旧領」も351石余。なお、寛文2年(1662)の真田氏検地では村高813石余に打ち出されたが、同氏改易後、幕命による貞享3年(1686)の酒井氏検地では354石余になった(『薄根村誌』)。安政5年(1858)の年貢割付状によれば、村高351石余、反別47町余のうち田方25町余・畑方21町余。貢租は米114石余・永30貫余文で、この額には百姓林年貢・薪役・鉄砲役・鴨役などの小物成も含まれている(『薄根村誌』)。社寺は、武尊神社、天台宗金剛寺、同長広寺がある。江戸期以前、下沼田から善桂村・白岩村が分村したとされる。幕末の改革組合村高帳では、沼田町・榛名村寄場組合に属し、高594石余、家数106。片山家は、宝治年間以降この地方を支配した三浦系沼田氏の系譜を引く家柄と考えられ、3代荘田城主沼田景盛の次子景家が下沼田村へ分家居住したのち、景家の長子景載の子孫が片山姓を名乗ったようである。景載の子である景光を片山家初代とし、一族は代々真田家に仕えたが、真田家改易後は浪人となり、再仕官あるいは書道の師など各様の道を辿っている。
伝来 下沼田地区の古文書所在を見ると、区有をはじめ片山家・長谷川家など10家に伝存が確認できる。大部分は江戸中期以後の文書で、各家の文書数も多いとはいえず、名主公文書の伝存も長谷川家以外あまり見られない。また、区有文書も現状で見る限り少数点で、旧名主文書が区有の形でまとめられて引き継がれた形跡もない。江戸末期から明治にかけての名主年番制により、必要なもののみが引継の対象となり、それ以外の文書は当時の名主家に分散され保存されたと考えられる。片山家の文書の伝存についても、この事由から理解できる。
数量 111
年代 元和6年(1620)~明治25年(1892)
構造と内容 主に江戸中期から後期にかけての文書群。年代的には、近世75%、近現代25%。①片山家の歴代当主が、家の存立のために保存すべきとし継承してきた文書、②名主役の職務引継ぎのため残されたと推定される文書、③名主役以外に、片山家が村・共同体との関わり合いをもつなかで伝存された文書、④私的書状・その他、などからなる。主な文書としては、「片山家系図」(№24-1~24-6)、「村誌」(№44)、「真田信吉朱印状」(№31)「片山四郎左衛門宛知行免状」(№18)、「沼田宗匠松永乙人俳号授与状」(№38)など。
検索手段 片山寛寿家文書目録、『群馬県立文書館収蔵文書目録』4、インターネット検索目録
関連資料 『薄根村誌』『沼田市史』(年)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 特になし
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