資料区分 |
古文書 |
請求番号 |
P8111 |
文書群名 |
真下一久家文書 |
伝存地 |
勢多郡昭和村森下 |
出所 |
利根郡昭和村 真下一久家 |
地名 |
勢多郡森下村/第十八大区第四小区/北勢多郡森下村/北勢多郡久呂保村/利根郡久呂保村/利根郡昭和村森下 |
旧支配 |
前橋藩領/前橋県/第一次群馬県/熊谷県/第二次群馬県 |
役職等 |
勢多郡森下村名主、森下村戸長、久呂保村戸長など |
歴史 |
森下村は、前橋城下から利根川左岸を経て、片品川左岸へと抜ける村々の総称である「川通」と呼ばれる地域に属した。▼川欠や石砂入による畑の潰地化により、享保・元文期以降、次第に人口が減少する様子が窺える。▼また、荷継場のためか、馬の保有数は多い。森下村には沼田城下と前橋城下を結ぶ沼田街道が通っていた。▼戦国時代には軍用道として利用されたが、江戸時代になると沼田藩主の参勤交代路として整備された。▼物資輸送路としての役割も果たし、森下村は沼田街道の荷継場であり、本陣・問屋などが置かれた。▼森下村の本陣は代々角田家が務めた。▼物資の流通が盛んになると、街道周辺では荷物の継立てをめぐって度々紛争が起きている。▼真下家の先祖は、館林城主北条氏邦の家臣で板倉城主であった真下信氏であるという。▼天正18年、信氏が討ち死にしたため、妻女が2歳の男子を抱いて流浪の末森下に落ち着き、その子が「真下七郎右衛門」(信次)を名乗り、真下家の祖となって、この信次の子の内「某 甚五兵衛」が「三郎兵衛」に改め、真下一久家の祖となったという。▼江戸時代に森下村の名主を勤め、代々三郎兵衛を襲名した。▼江戸時代を通して、同家当主が名主や問屋役などを務め、明治時代以降も森下村の戸長・副戸長などに就いている。 |
伝来 |
勢多郡森下村の真下家に伝来した文書群。 |
数量 |
4802 |
年代 |
寛文9年(1669)~昭和29年(1954) |
構造と内容 |
江戸時代の森下村名主を務めた真下家の史料。人別送り証文などの江戸時代の名主文書や、書状・各種の覚など真下家の私的文書を含む。 |
検索手段 |
真下一久家文書目録、『群馬県立文書館収蔵文書目録』28、インターネット検索目録 |
関連資料 |
昭和村関係の原文書:真下文男家(P08716)、林成一家文書(P8204)。▼昭和村関係の複製資料:真下嘉久寿家文書(H77-1-4近世)、角田勝美家文書(H77-2-1近世)、川額区有文書(H77-3-1近世)、永井区有文書(H77-3-2近世)、高橋偀八家文書(H77-3-4近世)、林謙蔵家文書(H77-6-2近世)、林幸勇家文書(H77-7-2近世)、林愛司家文書(H77-7-3近世)、林善市郎家文書(H77-7-4近世)など。▼ほかに参考図書として『村誌久呂保』、『群馬県史』資料編12・13、通史編4・5、『前橋市史』2など。論文に当館紀要『双文』第28号「中近世の上野国沼田をめぐる交通路と町場」須藤聡など。▼(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など) |
利用上の留意点 |
「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。 |