資料区分 |
古文書 |
請求番号 |
P8113 |
文書群名 |
岡部毅家文書 |
伝存地 |
太田市強戸 |
出所 |
太田市 岡部毅家 |
地名 |
新田郡強戸村(江戸時代)/栃木県新田郡強戸村(明治4年~)/群馬県新田郡強戸村(明治9年~)/新田郡強戸村大字強戸(明治22年~)/太田市大字強戸・太田市強戸町(昭和32年~現在) |
旧支配 |
館林藩領(榊原康政、天正年間)/幕府領代官支配(正保元年~)/館林藩領 (徳川綱吉、寛文元年~)/幕府領代官支配(天和元年~)/旗本領:金田・柴田・神尾・小出・石尾・松平氏の6給(天和2年~)/岩鼻県(明治元年~)/館林県(明治4年7月~)/栃木県(明治4年10月~)/第二次群馬県(明治9年~) |
役職等 |
新田郡強戸村名主、県会議員(岡部駒次郎・周治)、郵便局経営、地主経営など |
歴史 |
強戸は、金山丘陵の北西麓、大間々扇状地藪塚層最東端に位置する。地名は、八王子丘陵と金山丘陵の西に向かって開いた渓谷状の地形に由来すると思われる。古くは、額戸・額土・合戸とも書いた。強戸村は、南北に長いため、当地の人は上強戸・中強戸・下強戸と分けて呼んでいる。村高は、「寛文郷帳」で1368石余のうち田方958石余・畑方409石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1385石余。曹洞宗瑞光寺は、宝暦3年(1753)版の東上州新田秩父三十四番札所では第1番(柳家文書/『太田市史 史料編近世2』)。天保9年(1838)の農間渡世書上帳(岡部毅家文書/『太田市史』史料編近世2)によると、家87・人数412。幕末期の改革組合村高帳では、太田町寄場組合に属し、高1385石余、家数82。明治3年(1870)の家数人別増減帳(岡部毅家文書/『太田市史 』史料編近世1)によると、明治2年の家数96、人数536うち男261・女283、馬41。明治6年、成塚村・北金井村・強戸村の3村共同で極深小学校を当村の瑞光寺に設立し、生徒数85のうち男63・女22であった(「強戸小学校沿革誌」)。 |
伝来 |
新田郡強戸村の岡部家に伝来した文書群。 |
数量 |
50 |
年代 |
正保4年(1647)~昭和45年(1970)*閲覧公開分 |
構造と内容 |
「上州新田領強戸村御検地水帳」(正保4年8月)、「人別宗門御改帳」(文化7年5月)「御用留」(慶応4年1月)、「村絵図」(年次不詳)、などがある。 |
検索手段 |
岡部毅家文書目録、インターネット検索目録 |
関連資料 |
『太田市史 史料編近世1・2』『太田市史 通史編 近世』(平成4年)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など) |
利用上の留意点 |
「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。 |