資料区分 古文書
請求番号 P8117
文書群名 小林小五郎家文書
伝存地 藤岡市中大塚
出所 藤岡市 小林小五郎家
地名 上野国緑野郡中大塚村/岩鼻県緑野郡中大塚村(明治元年~)/群馬県緑野郡中大塚村(明治4年~)/熊谷県緑野郡中大塚村(明治6年~)/群馬県緑野郡中大塚村(明治9年~)/緑野郡美土里村大字中大塚(明治22年~)/多野郡美土里村大字中大塚(明治29年~)/藤岡市中大塚(昭和29年~)
旧支配 藤岡城主松平康貞領/幕府領(慶長6年~)/幕府・旗本渡辺氏相給(寛永7年~)/旗本鳥居・弓気多氏相給(元禄11年~)/幕府・弓気多氏相給(弘化2年~)/関東郡代岩鼻附御料所など/岩鼻県/第一次群馬県/熊谷県/第二次群馬県
役職等 中大塚村名主・組頭
歴史 古くは上・中・下の大塚村は一村で大前村と称したといい、一帯は高山御厨内で大塚郷と称された。▼永禄6年に武田氏と北条氏の申し合わせによって安保氏に与えられた土地に「中大塚杉文」がある。▼用水は上大塚村・下大塚村と本動堂村4ヵ村で組合を作り、鮎川堀を利用。小林家は秩父氏を出自とし、高山重遠の第二子小林重幸およびその嫡子重弘らより代々武士として活躍したが、天文10年に衛重が土着帰農したという。▼江戸時代、村高は『寛文郷帳』では1056石余、田方345石余・畑方711石余。助郷は中山道新町宿に出役、伝馬宿入用金を上納した。▼幕末の改革組合村では新町宿寄場組合に属し、高1061石余・家数81軒であった。明治3年では葉煙草・葉藍・芋などが生産されていたようである。▼なお小林家については『群馬県立文書館収蔵文書目録 3』解題を参照していただきたい。 ▼小林家の屋敷地は堀をめぐらした城郭址(中大塚城跡)となっている。村内の千手寺は中大塚城主小林氏の祈願寺と伝わる。
伝来 村役人は交代制であったため、文書は逐年小林家のみに伝存されていたわけではないので、小林家の地位を考慮すると現在伝存された文書が量的に多いというわけにはいかない。しかし、14代目重懿の代には家の永続を意識して相当綿密に家系調査が行われたようである。
数量 2758
年代 天正3年(1575)~昭和27年(1952)
構造と内容 【~No.512】文書群は村方文書を主体とし、天正19年の検地帳をはじめ年貢割付状や宗門人別帳、五人組帳、触書などを含む。▼年貢関係資料を利用する際には、江戸時代ほとんどの時期に二給であった関係上、領知区分を確認しつつ利用する必要がある。これに私的な家経営に関わる文書が加わり、特に金銭貸借証文類は多量にのぼる。▼▼【No.513~】①緑野郡中大塚村名主文書‥‥送り・引取状が多い。▼享保15年(1730)正月19日に行方不明の人間の所在を尋ねる文書が名主五郎兵衛より周辺の村々へ14通発給されている(№1636・1638など)。▼名主文書ではないが、安政4~5年に利根郡片品村土出村の金井沢金山の絵図(№1896)と経営に関する取り極め(№1895)が残されている。▼②小林家近現代史料‥‥戸長を勤めていたので、明治5年~11年の群馬県(熊谷県)布達が多く残る。書簡類も多い。▼北海道開拓に従事している人物がおり、現地からの書簡が約40点ある。▼③典籍‥‥ 『論語』『春秋』など四書五経などが多い。『太平記』『前太平記』『後太平記』など中世の軍記物が多く残っているのが特徴である。とくに『甲陽軍鑑』は20巻揃っている。
検索手段 小林小五郎家文書目録、インターネット検索目録、『群馬県立文書館収蔵文書目録 3 多野藤岡地区諸家文書(1)』
関連資料 すでに『群馬県立文書館収蔵文書目録 3』で第一次寄託分を公開している。また、同家文書には県史複製資料があり、請求番号は「H8-4中世」「H8-16-1近世」「H8-16-1近現」である。▼ほかに山崎一『群馬県古城塁址の研究』下巻など。▼(参考文献:『角川日本地名大辞典 10 群馬県』、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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