資料区分 |
古文書 |
請求番号 |
P8205 |
文書群名 |
黒澤丈夫家文書 |
伝存地 |
多野郡上野村乙父 |
出所 |
多野郡上野村 黒澤丈夫家 |
地名 |
甘楽郡乙父村/南甘楽郡乙父村(明治11年~)/南甘楽郡上野村大字乙父(明治22年~)/多野郡上野村大字乙父(明治29年~現在) |
旧支配 |
徳川氏代官支配(天正年間)/幕府代官・関東郡代支配(慶長8年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年10月~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~) |
役職等 |
乙父村名主、酒造業など |
歴史 |
乙父は、神流川流域に位置し、乙父沢川が北流して神流川に注ぐ。▼北方に笠丸山、南に雨降山・時計山、乙父沢川の奥には天丸山・帳付山がそびえる。▼神流川を挟んで南北に小集落が点在している。▼枝村に東西村・小春村・柿平村がある。村高は、「寛文郷帳」では34石余で全てが畑方、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに116石余。▼現存する検地帳によると貫文制であり、太閤検地はなかったと思われる。▼宝暦6年(1756)の13か村人数書上控(高崎市立図書館所蔵文書/『群馬県史』資料編9)によると、人数526のうち男271・女257、他に泉竜寺人数1・社家人数1。▼泉竜寺は、天正3年(1575)の開山とされ、慶長3年(1598)に堂を建立。▼地内の乙父沢山・住居附山などに合計9か所の御巣鷹山があり、御用林と御巣鷹の看守にあたる人が乙父沢に住んでいた。▼御用林の檜は、川の流れを利用したせき流しで江戸へ運び出していた。▼山仕事をする人が多く、また木地師として、木鉢・メンパ・臼・シャモジなどを作る人や下駄づくり・屋根板はぎ・漆かきなどの職人で他地域から入り込み、そのまま地内に住みつくようになった人も居る。▼奥地まで畑を耕し、ソバ・アワ・ヒエ・大豆・小豆などの雑穀を主として栽培していた。桑・楮は、荒地や傾斜地の畑を利用して作り、養蚕・和紙づくりに励んだ。▼紙・大豆・小豆・絹の順で現金収入を得ていた。▼幕末の改革組合村高帳では、楢原村寄場組合に属し、高116石余・家数116。 |
数量 |
7440 |
年代 |
慶長10年(1605)~大正15年(1926) |
構造と内容 |
(1)村方文書(支配・法令、戸口、土地、貢祖・諸掛物、村政・村況、交通・運輸、社寺・兵事、教育・学芸・出版、普請)、(2)個人・家(酒造関係、金融・売買貸借、葉書・書簡・口上、買物受取書、奉公人・小作、諸稼)、などからなる。 |
検索手段 |
黒澤丈夫家文書目録、『群馬県立文書館収蔵文書目録』15、インターネット検索目録 |
関連資料 |
『上野村誌』(平成17年3月)、『近世山村地域史の研究』佐藤孝之(吉川弘文館)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など) |
利用上の留意点 |
「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。 |