資料区分 古文書
請求番号 P8207
文書群名 栗崎智康家文書
伝存地 藤岡市下日野
出所 藤岡市 栗崎智康家
地名 多胡郡大栗村/多胡郡下日野村/第十四大区第十二小区/多胡郡日野村/多野郡日野村/藤岡市下日野
旧支配 幕府領/旗本領(松平氏)/吉井藩領/岩鼻県/第一次群馬県/熊谷県/群馬県
役職等 本山派修験日野坊
歴史 栗崎(もとは柴崎)家は、聖護院を本山とする本山派修験として代々、多胡郡下日野村内大栗村にあり、「日野坊」を称した。日野坊は天正年間(1573~1592)から多野郡日野谷中の山伏として、文書などに名前を残したという。▼万治3年、日野坊は上日野の地に分家として西蔵院を出している。▼元禄14年、西蔵院が矢田坊(多胡郡矢田村の修験)の帰属になりかけた時、西蔵院はこれを強く拒み、従来通りの日野坊支配を求めて、江戸役所(往心院)に訴えた。後年、西蔵院には日野坊を顧みないことがしばしばあり、日野坊との出入が絶えなかったようである。▼明治5年に公に修験道が廃止されると、栗崎家はこれを機に聖護院(天台宗寺門派に属する)を離れ、真言宗薬王院(高尾山)に随い、これと並行して神道神宮派(神宮教、後の神宮奉賛会)から神習教、御嶽教など教派神道に属し、布教を行っている。▼その後、栗崎家は教派神道の一つである神道修成派に改めたといわれる。▼本山修験宗の総本山である聖護院は、もと天台宗寺門派の大本山で、三門跡の1つ。室町時代の門跡道興准后は全国の熊野系山伏を歴訪し(群馬郡西国分村の大蔵坊に10日余り宿泊)、本山派と呼ばれる天台系修験教団の組織を確立した。その組織は聖護院を本山とし、京都にある住心院などの院家を中核とし、地方の修験や熊野先達などを通して全国の修験者を統轄した。
数量 243
年代 慶長14年(1609)~昭和9年(1934)*閲覧公開分
構造と内容 文書および典籍類は修験道関係が多くを占める。なかでも「諸尊法」は中世仏書の口誦を忠実に伝えている点で貴重な資料である。
検索手段 栗崎智康家文書目録、『群馬県立文書館収蔵文書目録』3、インターネット検索目録
関連資料 「上野国本山派山伏名所記」(前橋市立図書館蔵、『前橋市史』6)。▼矢田坊の文書がある「吉井町郷土資料館文書9(伊藤幸吉家文書)」(H42-1-1(9)近世)。▼本山派修験関連文書として、内山幹雄家文書(大蔵坊、PF0001)、長見寺文書(P0006)、浦野恒彦家文書(大乗院、P8907)、浦野安孫家文書(大乗院、和田山極楽院、P0603)、小幡宰太郎家文書(寶常院、P0503)、長尾貞治家文書(東覚院、P01902)、上杉うづ家文書(三宝院鷹巣寺、H10-24-1近世)など。▼『山伏の地方史 -群馬の修験道-』(みやま文庫)など。▼(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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