資料区分 県史複製
請求番号 H0-6-1近世
文書群名 妙安寺文書
伝存地 前橋市
出所 真宗大谷派妙安寺
地名 群馬郡前橋板屋町(近世)/群馬郡前橋立川町(明治6年~)/東群馬郡前橋立川町(明治11年~)/東群馬郡前橋町立川町(明治22年~)/前橋市立川町(明治25年~)/前橋市千代田町(昭和41年~)
旧支配 前橋藩平岩氏領(天正18年~)/前橋藩酒井氏領(慶長6年~)/前橋藩松平氏領(寛延2年~)/川越藩松平氏領(明和4年~)/前橋藩松平氏領(慶応3年~)/前橋県(明治4年7月~)/第一次群馬県(明治4年10月~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
歴史 一谷山最頂院妙安寺と号し、真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来。貞永元年(1232)、親鸞門下二十四輩の第6番であった九条参議中村幸実の創建。もとは下総国猿島郡一之谷村(現茨城県猿島郡境町)にあった。▼幸実が讒言により下総国に配流中、常陸国にいた従弟の親鸞に帰依し、帰京する親鸞から成然の法号と形見としの寿像を与えられ、一之谷に草庵を開いたのが寺の始まりとされる。▼天正18年(1590)、妙安寺は酒井重忠に招かれ川越(現埼玉県川越市)に移り、酒井氏の転封に従い前橋へ移る。▼徳川家康の東本願寺創建に際し、親鸞自作の寿像を東本願寺に移安するように要請があり、以後寿像は東本願寺御影堂に安置され、現在に至る。▼このため妙安寺は葵の紋章をはじめ、数多の銘器・書画などを拝領し、本山からは「御里御坊」として優遇を受けることになった。
伝来 真宗大谷派妙安寺
数量 29
年代 慶長7年(1602)~嘉永2年(1849)
構造と内容 本多佐渡守正信奉書(慶長7年(1602)3月9日)、徳川家光朱印状写〔下総国猿島郡三村妙安寺領内10石〕(慶安元年(1648)8月17日)などのほか、一谷山最頂院妙安寺縁起(上・下)(承応2年(1653)8月10日)などの寺誌類、教如上人書状〔本願寺本尊所望に付斡旋依頼〕、宣如上人書状(御朱印頂戴の礼)など近世初期の東本願寺法主からの書状などで構成される。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 同寺中世文書の県史複製資料はH0-17中世「妙安寺文書」。▼参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『日本歴史大系10群馬県の地名』、群馬県立歴史博物館『第91回企画展:親鸞と妙安寺』など
利用上の留意点 本資料はマイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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