資料区分 古文書
請求番号 P8704
文書群名 新治村布施区有文書
伝存地 利根郡新治村布施(現みなかみ町)
出所 利根郡みなかみ町(旧新治村) 新治村布施区
地名 吾妻郡布施村/吾妻郡布施村/吾妻郡久賀村布施/利根郡久賀村布施/利根郡新治村布施/利根郡みなかみ町布施
旧支配 沼田藩領(真田氏)/幕府領代官支配(天和元年~)/沼田藩領(本多氏、宝永2年~)/幕府領代官支配(享保15年~)/上里見藩領(松平氏、寛延元年~)/幕府領代官支配(宝暦9年~)/幕府代官支配・旗本領(小田切氏領、文化8年~)/旗本領(小田切氏・村垣氏、文政2年~)/幕府代官支配・旗本領(小田切氏、文政7年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
歴史 布施村は三国街道の宿場として栄え、布施町とも呼ばれた。村内は、三国街道沿いの布施宿(上宿・下宿)・河原・箕輪・野田原・沢久保・大塩・上原の7集落からなる。沼田を領した真田氏は早くから三国街道筋に馬継場や市場などを設置し、その整備を図っているが、慶長13年12月朔日付で、布施新田町立てのための朱印状が出されている。幕末の改革組合村高帳では須川村寄場組合に属す。明治5年の大区小区制では第19大区第9小区に入り、同7年湯宿村の一部を合併する。同17年には須川外4ヵ村と連合し須川町外ヵ村連合となる。同22年の町村制施行により前記6ヵ村の他に永井・吹路・猿ヶ京の3ヵ村と合併し久賀村となり、布施村は布施区となった。明治29年には利根郡に編入、同41年には久賀村と湯の原村が合併し新治村となる。
伝来 近世布施村の村方文書、明治期以降の近代文書が布施区に伝存してきた。文書は主な家に分散して保管されてきたほか稲荷神社の土蔵にも収蔵されていた。
数量 1522
年代 貞享2年(1685)~昭和12年(1937)
構造と内容 本文書の構成は、(1)江戸時代の布施村関係文書、(2)明治時代の戸長役場関係文書、(3)明治22年以降の久賀村・新治村の自治会組織である布施区関係文書、の大きく3つに分けられる。(1)江戸時代の布施村関係文書では、①村政関係、②年貢・土地関係、③交通関係等の文書がまとまっている。①では秣・干草苅、入会山関係の村議定や、隣村との訴訟関係の文書がみられる。その他、天保期の「町」の呼称に関する史料は興味深い。②では、検地帳・名寄帳等が揃っており、質地・流地等を書き留めた田畑加判帳も100点を超える。また、赤谷川の川欠関係の文書も確認できる。③は、布施宿の問屋役や人馬賃銭関係が中心である。(2)明治時代の戸長役場関係文書では、①地引帳等の土地関係、②租税皆済帳等の租税関係、③群馬県布達全書、太政官布達等の布達・布告関係の史料がまとまっている。その他、明治7年の布施村・湯宿村の合併関係の文書などもみえる。(3)明治22年以降の布施区関係文書では、①区役員・区費等の区関係、②学校建築等の教育関係、③慰問・兵士送別、防空等の軍事・防空関係、などの史料がまとまっている。なかには、布施・師田村の分合願などもあり、当時の地域編成を考える上から興味深い。また、江戸から明治期にかけての絵図類が60点近くあり、検地帳・地引帳等と併用することで、様々な視点からの分析が期待できる。
検索手段 新治村布施区有文書目録、『群馬県立文書館収蔵文書目録』30、インターネット検索目録
関連資料 旧新治村関係文書:河合雄一郎家文書(P8004)、新治村村有文書(P8417)、林孝雄家文書(P8503)、原沢正明家文書(P8713)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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