資料区分 |
古文書 |
請求番号 |
P08716 |
文書群名 |
真下文男家文書 |
伝存地 |
利根郡昭和村森下 |
出所 |
利根郡昭和村 真下文男家 |
地名 |
上野国利根郡森下村/北勢多郡森下村/北勢多郡久呂保村/利根郡久呂保村/利根郡昭和村 |
旧支配 |
前橋藩領(~明治4年)/群馬県(~明治4年)/熊谷県(~明治6年)/群馬県(明治11年~) |
役職等 |
勢多郡森下村名主など |
歴史 |
森下村は、前橋城下から利根川左岸を経て片品川左岸へと抜ける村々の総称である「川通」と呼ばれる地域に属した。▼川欠や石砂入による畑の潰地化により享保・元文期以降、次第に人口が減少する様子が窺える。▼また、荷継場のためか馬の保有数は多い。▼森下村には沼田城下と前橋城下を結ぶ沼田街道が通っていた。戦国時代には軍用道として利用されたが、江戸時代になると沼田藩主の参勤交代路として整備された。▼物資輸送路としての役割も果たし、沼田街道の荷継場であり、本陣・問屋などが置かれた。▼森下村の本陣は代々角田家が務めた。物資の流通が盛んになると、街道周辺では荷物の継立てをめぐって度々紛争が起きている。▼真下家の先祖は、館林城主北条氏邦の家臣で板倉城主であった真下信氏であるという。天正18年、信氏が討ち死にしたため、妻女が2歳の男子を抱いて流浪の末森下に落ち着き、その子が「真下七郎右衛門」(信次)を名乗り、真下家の祖となったという。信次の子「信弥 間兵衛」の子孫が真下文男家にあたる。▼江戸時代の終わりには「又兵衛」を主に名乗るようになり、森下村の名主として史料に表れてくる。 |
伝来 |
本文書は、同じ森下村の真下一久家に由来する文書が多数を占めている。真下文男氏によると、昭和60年頃に真下一久家が家を改築する際、襖の下張りなどに利用されていた文書を譲り受けたという。 |
数量 |
471 |
年代 |
延宝6年(1678)~昭和16年(1941) |
構造と内容 |
森下村の概要を示す検地帳の写しや人々の移動を示す人別送り証文、経済活動の様子を知る借用書等、江戸時代の森下村を知る上で貴重な資料となる文書、明治時代の小学校・高等小学校で用いられた教科書や書籍などが含まれている。 |
検索手段 |
真下文男家文書目録、『群馬県立文書館収蔵文書目録』28、インターネット検索目録 |
関連資料 |
昭和村関係文書:真下一久家(P8111)、林成一家文書(P8204)、真下嘉久寿家文書(H77-1-4近世)、角田勝美家文書(H77-2-1近世)、川額区有文書(H77-3-1近世)、永井区有文書(H77-3-2近世)、高橋偀八家文書(H77-3-4近世)、林謙蔵家文書(H77-6-2近世)、林幸勇家文書(H77-7-2近世)、林愛司家文書(H77-7-3近世)、林善市郎家文書(H77-7-4近世)、『村誌久呂保』、『群馬県史』資料編12・13、通史編4・5、『前橋市史』2など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など) |
利用上の留意点 |
襖等の下張りとして利用され、その後剥がされて保存されたと考えられる文書が多いため、紙質の傷みが激しい文書がある。取り扱いに注意を要する。「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。 |