資料区分 |
古文書 |
請求番号 |
P08814 |
文書群名 |
中島正家文書 |
伝存地 |
前橋市大胡町 |
出所 |
前橋市大胡町 中島正家(宮関村大川家・大胡町中島家) |
地名 |
上野国勢多郡宮関村(近世~)/前橋県勢多郡宮関村(明治4年7月~)、群馬県勢多郡宮関村(明治4年10月~)/熊谷県勢多郡宮関村(明治6年~)/群馬県勢多郡宮関村(明治9年~)/南勢多郡大胡町(明治11年~)/南勢多郡大胡村(明治22年~)/勢多郡大胡村(明治29年~)/勢多郡大胡町(明治32年~)/前橋市大胡町(平成16年~現在) |
旧支配 |
大胡藩領(牧野氏・~元和4年)/前橋藩領(元和4年~)/幕府領(明和5年~)/前橋藩領(天明5年~) |
役職等 |
大胡町・宮関村名主、第八大区小三区戸長、小三区副区長(大川家) |
歴史 |
近世の宮関村は、「寛文郷帳」では村高202石余(うち田方153石余・畑方49石余)、「元禄郷帳」203石余 、「天保郷帳」225石余である。▼村役は、村方三役の上に庄屋を置き、勝山家が世襲した。初めは大胡藩領、幕府領を経て前橋藩領で明治維新を迎える。▼明治初期の大区小区制期では、茂木村・堀越村・河原浜村などと八大区小三区に区分される。明治11年に南勢多郡大胡町と改称した。平成16年前橋市と合併し現在に至る。▼中島家は、近世から「岩附屋」という屋号で商売を行っている。一方大川家は、「亀屋」という屋号で商売を行っている。▼中島家は、後に大川家から養子を迎えた際に屋号を「亀屋」に改めたようである。 |
伝来 |
明治時代に中島家は大川家から養子を迎え、そのときに文書を持参したことため、中島家には大川家文書も伝来する。2020年度に寄贈された。 |
数量 |
1928 |
年代 |
寛文6年(1666)~昭和42年(1967) |
構造と内容 |
近世文書はおよそ300点で、元禄年間の新田水帳が5点あるが、ほとんどが江戸末期の史料で、おもに新田水帳・年貢割付などの年貢関係や御用留、橋などの普請関係の史料である。▼また借金証文や田畑の譲状も多い。ごくわずかだが幕末~明治初年にかけて酒造・醤油造に関する史料もみられる。水戸藩主徳川治紀の書状(№852)や幕末期の前橋城の再築に関わる文書も存在する(№853・854・856・958など)。▼また明治4年(1871)の正月に前橋の旅宿が宣伝として配ったお年玉(広告)には、前橋藩最後と思われる職制と役人の氏名が記されている(№1505)。▼近現代文書は明治5年前後の米相場、産物に関する史料がが多い。近世ではみられない養蚕関連史料もある。▼また大川家は小三区副区長・大胡町戸長を務めていたので廻章・布達や役場文書多い。宮関村だけではなく、大胡町・河原浜村・樋越村など周辺地域の関連文書も多数残存している。▼役場文書以外では、京都で天保の飢饉の様相を描いた図画(渡辺崋山画)もある(№1498)。▼明治時代から戦後までの時刻表・鉄道路線図(№1510~1520など)も多数あり、特に両毛線は現在と駅が大きく異なっているので、各時代で見比べると非常に面白い。近世から近現代で多方面にわたり非常に興味深い資料群であろうか。▼近世・近現を問わず「論語」などの漢籍なども多い。 |
検索手段 |
中島正家文書目録、インターネット目録検索 |
関連資料 |
「大胡町上大屋区有文書」(請求番号P8215)、「大胡町茂木第二区有文書」(請求番号P8301)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など) |
利用上の留意点 |
群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。 |