資料区分 古文書
請求番号 P8907
文書群名 浦野恒彦家文書
伝存地 吾妻郡長野原町林
出所 吾妻郡長野原町 浦野恒彦家
地名 吾妻郡林村/吾妻郡長野原町大字林
旧支配 沼田藩領/幕府領(天和元年~)/岩鼻県(明治元年~)/群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/群馬県(明治9年~)
役職等 本山派修験年行事職
歴史 林村は群馬県北西部吾妻川中流左岸に位置する。「郡村誌」では貞享3年長野原村より分村独立とする。▼村高は、「寛文郷帳」では125石余(田方14石余・畑方111石余)、「元禄郷帳」195石余、「天保郷帳」「旧高旧領帳」ともに202石余。▼幕末の改革組合村高帳によれば、中之条町寄場組合に属し、高195石余、家数72。▼浦野家の先祖は、近世期本山派修験年行事職として大乗院を名乗っていた。大乗院は吾妻郡内に配下の山伏及び霞村として28ヶ村を持つ修験家であった。▼また林村の諏訪社の別当職も務めた。▼浦野一族の墓地は、通称「御塚」と呼ばれる長野原町大字林字東原にあり、「林の御塚」は村信法印の神域で、長野原町指定史跡となっている。▼本山修験宗の総本山である聖護院は、もと天台宗寺門派の大本山で、三門跡の1つ。室町時代の門跡道興准后は全国の熊野系山伏を歴訪し(群馬郡西国分村の大蔵坊に10日余り宿泊)、本山派と呼ばれる天台系修験教団の組織を確立した。その組織は聖護院を本山とし、京都にある住心院などの院家を中核とし、地方の修験や熊野先達などを通して全国の修験者を統轄した。
伝来 本山派修験の年中行事職などを務めた関係から修験道関係を中心とした資料群が、浦野家に伝存してきた。2020年度に寄贈された。
数量 257
年代 永禄11年(1568)~昭和13年(1938)
構造と内容 資料は、浦野家に伝存した中世から近代にいたる文書群で、①は宗教関係文書で文書の6割を占め、②は村政に関する文書で2割、③は浦野家の私的文書2割に区分される。▼①修験関係の文書では、袈裟着用の免許願い(近世中期の袈裟の補任料は3両)や、護摩壇開設願いなどである。
検索手段 浦野恒彦家文書目録、『群馬県立文書館収蔵文書目録 16 吾妻地区諸家文書(1)』、インターネット検索目録
関連資料 同じ大乗院の文書として浦野安孫家文書(P0603)。▼同じ地域の文書群として、林区有文書(H63-4-1近世)、篠原義家文書(H63-4-4近世)など。▼本山派修験関連文書として、内山幹雄家文書(大蔵坊、PF0001)、長見寺文書(P0006)、栗崎智康家文書(日野坊、P8207)、小幡宰太郎家文書(寶常院、P0503)、長尾貞治家文書(東覚院、P01902)、上杉うづ家文書(三宝院鷹巣寺、H10-24-1近世)、「吉井町郷土資料館文書9(伊藤幸吉家文書)」(矢田坊、H42-1-1(9)近世)など。▼『山伏の地方史 -群馬の修験道-』(みやま文庫)、「上野国本山派山伏名所記」(前橋市立図書館蔵、『前橋市史』6)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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