資料区分 古文書
請求番号 P8908
文書群名 前橋市関根町自治会文書
伝存地 前橋市関根町
出所 前橋市 前橋市関根町自治会
地名 勢多郡関根村/第三大区第一小区/南勢多郡関根村/南勢多郡南橘村大字関根村/勢多郡南橘村大字関根村/前橋市関根町
旧支配 前橋藩領(酒井氏)/前橋藩領(松平氏)/前橋県(明治4年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
歴史 関根村は勢多郡に属し、北に田口、北東に原之郷、東に川端、南に荒牧、西には利根川をはさんで漆原の各村々に接している。江戸時代を通じて前橋藩(川越藩)の支配を受けた。村高は寛文郷帳(1668)では421石余であり、その内訳は田方215石2斗余、畑方205石8斗余となっている。その後の推移は元禄郷帳(1703)で421石余、天保郷帳(1834)で492石余である。利根川の左岸に位置していることから天明3年(1783)の浅間山大噴火(天明三年浅間焼け)では「田畑泥入」の被害を受けた。『郡村誌』によれば明治10年(1877)頃の関根村は田28町7反余・畑47町2反余であった。民業は「男農桑業トスル者七十戸、女養蚕製糸ヲ以テ業トスル者九十人」と養蚕の盛んな地域であった。明治8年(1875)、関根地内の広瀬川近くに前橋藩士族の深沢雄象、速水堅曹、桑島新平(速水兄)らによって関根製糸所(研業社)が建設された。明治22年(1889)から南橘村の大字となり、昭和29年(1954)から前橋市の町名となった。
伝来 昭和51年度、同町の赤城神社境内に文書の収納庫が建設され、保存されてきた。
数量 1437
年代 元禄2年(1689)~昭和57年(1982)
構造と内容 江戸時代に作成されたと思われる史料は欠番もあり少ない(26点)。年代記載のある内で最も古いのが元禄2年(1689)「上野国勢多郡之内関根村新田辰より亥迄新田水帳」(№12)、「上野国勢多郡之内関根村水帳」(№20)である。その他には寛延3年(1750)の「宗門御改帳」や幕末期の願書留・願書控などである。明治期以降は戸長役場、区長所、自治会で作成された文書である。年代記載の無い文書が多いので今後の分析が必要である。内容は行政に関わるものとして各種税・寄附徴収や橋や道路の工事関連、領収書綴りなど多岐にわたる。中でも明治期に設立された桃川小学校設立への寄附や関東大震災への寄附、青年会規則、消防団関係史料など興味深いものもある。また地内にある真言宗金剛寺や赤城神社に関する文書も含まれている。地域の信仰の対象として人々が積極的に関わっていたことが分かる史料である。産業関係では各種調査から養蚕業が盛んであったことが分かる史料が含まれている。ただし明治8年設立の関根製糸所(研業社)に関する史料は見当たらなかった。また関根村にとって江戸期から明治以降にかけて利根川の流路変更による隣接村との境争いなどがあり、関係すると思われる絵図なども含まれている。絵図の内、№23(関根村利根川変遷図)、№263(地租改正地引図)はマイクロ閲覧である。
検索手段 前橋市関根町自治会文書目録、『群馬県立文書館収蔵文書目録』32、インターネット検索目録
関連資料 『関根町区有文書目録』、『南橘村誌』、『前橋市史』2~4、『群馬県史』通史編4~5、7~9など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録からは除外した。
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