資料区分 |
古文書 |
請求番号 |
P8909 |
文書群名 |
中島徳造家文書 |
伝存地 |
碓氷郡松井田町五料(現安中市) |
出所 |
碓氷郡松井田町五料(現安中市) 中島徳造家 |
地名 |
上野国碓氷郡五料村(近世)/安中県碓氷郡五料村(明治4年7月)/群馬県碓氷郡五料村(明治4年10月)/熊谷県碓氷郡五料村(明治6年)/群馬県碓氷郡五料村(明治9年)/碓氷郡臼井村(明治22年)/碓氷郡臼井町(明治23年)/碓氷郡松井田町五料(昭和29年)/安中市松井田町五料(平成18年~現在) |
旧支配 |
安中藩領(井伊氏、元和元年~)/安中藩領(水野氏、正保2年~)/安中藩領(堀田氏、寛文7年~)/安中藩領(板倉氏、天和元年~)/安中藩領(内藤氏、元禄15年~)/安中藩領(板倉氏、寛延2年~)/群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/群馬県(明治9年~) |
役職等 |
五料村名主・茶屋本陣(お東)(近世)、第八拾九学区学務委員・臼井町長・臼井町会議員・碓氷社碓東組長(中島正三郎)、碓井尋常高等小学校長・碓氷社碓東組長(中島拓造) |
歴史 |
五料村は群馬県西部の碓氷川上流域に位置する。村高は「寛文郷帳」では643石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領帳」ともに同高。▼幕末の改革組合村高帳では松井田宿寄場組合に属す。家数128。▼中山道の宿駅であり、お西(本家)お東(分家)と呼ばれた茶屋本陣が置かれた。▼江戸時代の中島家は平兵衛を名乗り、お西の金左衛門家と一年交替で碓氷郡五料村の名主役を世襲した家柄である。▼明治期以降、平四郎の代には副戸長、正三郎の代には醤油醸造業などを営むかたわら、学務委員、臼井町長、町会議員等の公職を歴任して町の発展に尽力した。 |
伝来 |
江戸時代以降、中島家に代々伝来した文書・記録・典籍類である。▼なお、お東の本宅は中山道の「五料の茶屋本陣」として知られ、昭和59年12月県史跡に指定された。▼さらに、平成4年には土地と建物が松井田町へ寄贈され、保存修復を経て、現在お西の中島家と共に一般公開されている。 |
数量 |
13183 |
年代 |
万治2年(1659)~昭和47年(1972) |
構造と内容 |
総点数が約25,000点に及ぶ伝来文書は、碓氷郡五料村の近世から近代・現代に至る村政文書と、中島家あて郵便ハガキ・書簡など私的関係文書及び典籍類などから構成されている。▼近世の五料村名主文書には、享保期から幕末に至る五料村の宗門人別改帳あるいは五人組人別改帳が比較的よく揃っている。▼また、村政に関する諸願書、入之湯への通行手形、家出人尋ね書、土地・年貢請取、中山道人馬継立て・助郷・碓氷関所等に関するものが多い。▼【第3次公開(№5115~5873、5875~6307、6309~6941)】今回公開の約2300点のうち近世文書はおよそ200点。文化元年(1804)将軍徳川家慶室楽宮(さざのみや)下向関係の資料が3点ある(№5861・5875・5876)。「楽宮様御通行ニ付往還通絵図面并御触書(後略)」(№5876)とあり、すでに公開されている文化元年8月「五料村往還通絵図面」(№5874)は、このときに作製されたと考えられる。この絵図面は幕府役人ではなく安中藩へ提出されたようであり、村控えであろう。▼近現代文書はおよそ2000点。戸長役場ならびに臼井村(町)役場資料、碓氷社関係が多い。そのなかに学校関係資料が存在し、明治18年(1885)の「教場日誌」(№5143など)がある。「教場日誌」は日付・科目・授業内容が克明に記されてることから、当時の授業風景を垣間見られる貴重な資料である。これを記した人物は代用教員である「授業生」である。また記述や時間割などから、日曜日は休みだが、土曜日は午後も授業が行われていたことがわかる(№5153・5158)。同年の「勤惰表」(出勤簿、№5140~5142)もある。▼文化・学芸関係では俳諧関係資料が多く、名主平兵衛は俳号「永翠」を名乗っていたようである。▼【第4次公開(№18501)】2023年5月13日~8月4日の臨時展示「新発見史料の紹介~タイタニック号沈没事故関連文書~」で複製を展示した文書の原本1点。アメリカ合衆国ニューヨーク市に在留していた碓氷郡磯部村(現安中市磯部)出身の須藤元吉から同郷の中嶋拓造に宛てて出された書簡で、タイタニック号事件の他アメリカ大統領選についての情報等が記載されており、当時の世界情勢をうかがうことのできる史料である。▼【第5次公開(№6942~11976)】今回公開の約5300点のうち近世文書は730点。榛名山・諏訪神社の祭礼入用や伊勢御師による祈祷大麻・初穂・遷宮など神社に関する資料が多い。また菩提寺である補陀寺とのやりとりも多く、ほかに大山詣でなど宗教関係の資料が多い印象である。▼近現代文書はおよそ4500点。はがき・書簡が1850点。はがきは年賀状が約800点。書簡は病気見舞いやお悔やみなどが多い。軍事郵便が約60点で、そのほとんどは明治38年(1905)で日露戦争の資料である。また高崎市吉井町出身の商人山崎種二ともつながりがあり、大正13年(1924)7月山崎種二商店(現株式会社ヤマタネ)の開業の挨拶状ある(№7033-2)。教師をしていた中島拓造氏に宛てた教え子からの書簡が数通あり、就職の斡旋をしていたと考えられる。▼書籍は教科書・雑誌が多く、特に雑誌は『上野教育会雑誌』(20冊)などの教育関係、『趣味之園藝』(38冊)などの園芸関係が多い。 |
検索手段 |
中島徳造家文書目録、インターネット検索目録 |
関連資料 |
同家の県史収集複製資料として中島平一家文書(H54-4-2近世)。お西の文書として「碓氷郡松井田町 中島公男家文書」(PF0501)、中島公男家文書(H54-4-1近世)。▼ほかに旧松井田町の文書群として山田右二家文書(P8424)、後閑周之介家文書(PF9901)、武井義明家文書(PF9902)など。▼(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など) |
利用上の留意点 |
「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条および「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。 |