資料区分 古文書
請求番号 P9003
文書群名 市村了家文書
伝存地 吾妻郡長野原町大津
出所 吾妻郡長野原町 市村了家
地名 吾妻郡立石村草木原/吾妻郡大津村草木原/吾妻郡長野原町大字大津村
旧支配 沼田藩領(真田氏、天正18年~)/幕府領(天和元年~)/旗本領(深津弥七郎、元文5年~)/岩鼻県(明治元年~)/群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/群馬県(明治9年~)
役職等 田村家:坪井村名主など、市村家:立石村村役人(年番名主)、立石・勘場木兼帯名主、第10小区地主総代、長野原町消防組小頭、草木原小学校学務委員など
歴史 吾妻川中流左岸、同川支流遅沢川流域に位置する。立石村の村高は「漢文郷帳」では54石余(田方7石余・畑方47石余)、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領帳」ともに97石余。幕末の改革組合村高帳によれば、大戸村寄場組合に属し、高77石余、家数34。坪井村は沼田藩真田氏の支配からはじまり、天和元年から幕府領、元文5年から寛延元年まで旗本深津氏領。寛延2年から明治元年まで旗本伊丹氏領。村高は「漢文郷帳」では79石余(田方9石余・畑方69石余)、「元禄郷帳」84石余、「天保郷帳」85石、「旧高旧領帳」84石余。幕末の改革組合村高帳によれば大戸村寄場組合に属し、高84石余、家数12。市村家は江戸時代には代々権平を名乗り、立石村の村役人を務めた。天保3年(1832)8月に起きた水戸藩士殺傷事件「立石坂事件」が起きた。水戸藩主斉昭は事後処理に協力した村民に礼金を与えている。
伝来 江戸時代の文書は坪井村名主小林家に伝来したものが多く、近代以降については市村家に伝来した文書であり、両家の文書が混在している。混在した理由については、明治~大正期に小林家から婿養子が入ったことに関係するものと思われる。文書は市村家敷地内の土蔵内で管理されてきた。
数量 341
年代 文化8年(1811)~昭和2年(1927)
構造と内容 資料は、江戸時代後期から大正年間にかけての吾妻郡坪井村と立石村(両村とも現長野原町大津)と、長野原町大津村戸長役場文書、長野原町役場文書である。江戸時代の文書の多くは坪井村の小林家に伝来したものであり、近代以降については、市村家に伝来した文書が多く、両家の文書が混在している。
検索手段 市村了家文書目録、『群馬県立文書館収蔵文書目録』16、インターネット検索目録
関連資料 長野原町第六区有文書(P8811)、浅見喜義家文書(P08426)、黒岩今朝松家文書(P8812)、湯本正喜家文書(P8904)、市村了家文書(P9002)、市村一夫家文書(P9003)、湯本正喜家文書(P8904)、『長野原町誌』、『群馬県史』資料編11、『群馬県吾妻郡誌』など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 特になし
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