資料区分 古文書
請求番号 P9610
文書群名 狩野美恵子家文書
伝存地 勢多郡東村(現みどり市)
出所 みどり市(旧勢多郡東村) 狩野美恵子家
地名 勢多郡花輪村/南勢多郡花輪村/南勢多郡東村大字花輪/勢多郡東村大字花輪/みどり市東町花輪
旧支配 幕府直轄領(天正18年~)/岩鼻県(明治元年~)/前橋県(明治4年~)/第一次群馬県(明治5年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
歴史 渡良瀬川右岸に位置する。山稜に囲まれた山間地で、その大部分は森林地帯。▼わずかな居住地域と耕地は、渡良瀬川右岸の標高288~323mの河岸及びその段丘上に集中している。▼近世の村高は、「寛文郷帳」で畑方304石余、「元禄郷帳」558石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに558石余。▼花輪は、足尾銅山街道の宿場であり、同所高草木家の屋敷内に御用問屋・御用銅蔵が設置された。▼江戸中期、江戸を初め上野国内の社寺建築彫刻に優品を残した彫刻師集団の本拠地がここにあった。▼鎮守は、素戔嗚命・大已貴命を祀る三島神社、赤城神社・御霊神社などがある。▼幕末の改革組合村高帳では、水沼村寄場組合に属し、村高547石余、家数207。▼明治初期の『郡村誌』によると、幅員は東西33町48間・南北3里14町28間。▼民業は、男が農桑業171戸、内傍らに商業を行う者39戸・水車2戸・酒造3戸・旅店4戸など、女は全て養蚕・製糸・縫織を農間業とし、馬55。物産は、米・豆・麦・黍・生糸・諸材木・炭・薪などで、出荷物は大間々町へ搬送した。▼明治6年祥禅寺を仮用して小学校を開設し、 生徒数は男137・女87。明治24年の戸数179、人口は男515・女509、学校1、水車場2。▼明治20年代の初め頃から、かつての銅山街道は県道として拡幅・整備され、明治45年には足尾線が開通し(桐生・足尾間)、渡良瀬川上流地域の交通の要衝として賑わった。▼明治32年、花輪貯蓄銀行設立。「兎と亀」など言文一致の童謡唱歌の父とされる石原和三郎、日本鋼管を創始し、わが国の製鉄事業興隆に貢献した今泉嘉一郎などの出生地でもある。
伝来 新井ふで氏(狩野美恵子氏の母)が保管していた卒業証書。美恵子氏の実家である新井家に伝わったものである。狩野家より寄贈された。
数量 2
年代 大正8年(1919)~大正10年(1921)
構造と内容 2点とも新井ふで氏の卒業証書である。№1は群馬県立桐生高等女学校のものである。▼同校は、現在の群馬県立桐生女子高等学校で、明治41年(1908)山田郡立桐生高等女学校として、県内で2番目に設立された女学校である。▼設立当初は桐生町大字安楽土村(現桐生市小曾根町)にあった。大正2年(1913)桐生町大字安楽土村(現桐生市仲町)の元県立織物学校跡地に移転した。同7年、県立移管により群馬県立桐生高等女学校となった。▼ふで氏は、足尾線で同校へ通学し、同8年3月に満17歳で卒業した。その後、同校は昭和23年(1948)に群馬県立桐生女子高等学校となり、通信制も設置された(令和3年、桐生高等学校と統合)。▼№2は、山田郡私立桐生裁縫女学校の大正10年3月24日の卒業証書である。ふで氏は当時満19歳であり、上記群馬県立桐生高等女学校卒業後、同校に2年間通学し卒業した。▼ちなみに同校は、明治33年(1901)桐生裁縫専門女学館として開校、同36年桐生裁縫女学校と改称した。昭和9年(1934)財団法人となり、桐生高等家政女学校と改称した。同21年桐ヶ丘高等女学校と改称し、同23年学制改革のため桐丘高等学校と改称、平成元年(1989)桐生第一高等学校と改称して、現在に至っている。
検索手段 狩野美恵子家文書目録、インターネット検索目録
関連資料 (参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 特になし
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