資料区分 |
古文書 |
請求番号 |
P9707 |
文書群名 |
鏑木五子家文書 |
伝存地 |
勢多郡新里村新川(現桐生市) |
出所 |
桐生市(旧新里村) 鏑木五子家 |
地名 |
勢多郡新川村(江戸期~)/南勢多郡新川村/南勢多郡新里村大字新川村/勢多郡新里村大字新川/桐生市新里町新川 |
旧支配 |
幕府直轄(天正18年~)/旗本領(三給:鳥居権之助、承応2年~/平岡市左衛門、元禄15年~/横瀬駿河守、元禄16年~)/岩鼻県(明治元年~)/前橋県(明治4年~)/第一次群馬県(明治5年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~) |
役職等 |
新川村名主・組頭、領主足軽など |
歴史 |
赤城山南東麓、利根川支流の早川上流域に位置する。近世の村高は、「寛文郷帳」1,000石のうち田方229石余・畑方770石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,017石。▼寛文5年(1665)の年貢割付帳によれば、貢租は鳥居氏領で高206石余、米93俵余・永33貫文余を納入した(『新里村誌』)。▼神社は、八幡2社、菅原・雷電・赤城・熊野・愛宕・白山各1社(『郡村誌』)。▼寺院は、天台宗新光大平山妙珠院善昌寺・行光山安養寺、曹洞宗新川山龍真寺がある(『勢多郡誌』)。
善昌寺は、大同年間の開基といい、長楽寺(現太田市尾島町)の末寺で、新田氏の家臣船田義昌との関係が深い。▼文政2年(1819)の村明細帳によると、生業について、男は農間に薪伐・駄賃稼ぎ、女は生糸・木綿の糸引き(『新里村誌』)。▼秣場は2か所で、うち字富士山(現不二山)には芝山15町余があり、天明6年(1786)山田郡天沼新田の百姓伝五右衛門から新開願が出されたことに対し、芝山存続を訴えている(『群馬県史』資料編13)。▼幕末の改革組合村高帳では、大間々寄場組合に属し、村高1,017石余、家数166。▼幕末・明治維新期の横浜で活躍した生糸商・吉田幸兵衛は当村の出身。安政6年(1859)の横浜開港とともに弁天通に吉村屋を出店し、明治3年(1870)伊藤博文と渡米して銀行制度などを視察した(『県蚕糸業史』下)。▼寺子屋は、明治初期まで松茂堂・徳善院があった(勢多郡誌)。▼明治初期の『郡村誌』によると、民業は、男で農桑を業とする者236戸、馬63。物産は、米・麦・大豆・小豆・繭糸・薪などで、自用のほかは大間々町へ移出するとある。 |
伝来 |
2020年度に寄贈された。 |
数量 |
306 |
年代 |
慶長4年(1599)~昭和19年(1944) |
構造と内容 |
当文書群を年代別に分類すると、近世以前の文書184点(全体の60.1%)、明治期の文書68点(同22.2%)、近代・大正期の文書25点(同8.2%)、昭和期の文書22点(同7.2%)、年次不詳文書7点(同2.3%)となっている。▼また、勢多郡新川村の近世名主関係文書が165点(全体の53.9%)、勢多郡新川村(南勢多郡新里村大字新川など)の近代文書が39点(同12.8%)、鏑木家私的文書が102点(同33.3%)である。▼近世名主文書の内容は、年貢割付状等の貢租関係文書69点、村行政関係文書38点、宗門人別改帳等の村況・戸口関係文書26点などである。▼鏑木家私的文書については、典籍類・書画(45点)、冠婚葬祭関係文書(10点)、などが多い。 |
検索手段 |
鏑木五子家文書目録、インターネット検索目録 |
関連資料 |
同家の県史収集複製資料「鏑木亀次郎家文書」(H17-12-2近世)など。▼(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など) |
利用上の留意点 |
「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。 |