資料区分 古文書
請求番号 P0005
文書群名 酒井保敏家文書
伝存地 前橋市朝日町
出所 前橋市 酒井保敏家
地名 前橋城下・神明小路/群馬郡前橋町神明町/東群馬郡前橋町神明町/南勢多郡前橋町神明町/東群馬郡前橋町神明町/南勢多郡北神明町/前橋市神明町/一部が前橋市平和町1~2丁目・岩神町1~4丁目/一部が大手町1~3丁目・千代田町1~5丁目、一部が大手町1~3丁目・千代田町1~5丁目、一部が大手町1~3丁目・千代田町1~5丁目
旧支配 前橋藩領(平岩親吉、天正18年~)/前橋藩領(酒井重忠、慶長6年~)/前橋藩領(松平朝矩、寛延2年~)/前橋県 (明治4年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 前橋藩松平家家臣(明矩代白川で召抱・姫路・前橋・川越・前橋)など
歴史 神明小路は、近世期~明治7年(1874)の小路名。前橋城下武家地の一つ。前橋城北東部から北部にかけての地域。近世期、北は広瀬川左岸の向町、東は竪町、西は岩神村に囲まれた一帯に武家地が形成され、神明小路はその一画を占めた。神明小路の名は、竪町西端に鎮座する神明社にちなむ。御築城別記録によると、幕末期の前橋城再築に伴い屋敷割りされた武家地の中に「神明小路」の名が見え、当時の勘定奉行から銃隊士の屋敷地10軒があった。明治7年、神明町1~5丁目となった。神明町は、明治7年~昭和41年(1966)の町名。成立当初は、1~5丁目。初め前橋町、明治25年から前橋市の町名。旧武家地の柳小路・神明小路・向小路が合併し成立した。町域は、旧前橋城北東部から北部にかけて、広瀬川左岸に及び、その左岸はかつて御旗中間が居住したことから御旗町とも呼ばれた。町内には曹洞宗源英寺がある。明治6年、同寺に師範学校の前身の小学校教員伝習所が開設された。明治11年、郡区町村制施行により、町域のうち広瀬川左岸は南勢多郡前橋町に、広瀬川右岸は群馬郡前橋町に属すこととなった。明治22年、南勢多郡に属す地域は「北神明町」として分離するが、明治末年までに再び神明町に編入されたと考えられる。明治24年刊行の「前橋繁昌記」(当文書№54)によると、町内に蚕糸業4・土木業3・工業1・荒物業1・料理業2・米穀肥料販売業2・乾物青物販売業・砂糖並菓子販売業2などの商家や医療、髪結・銭湯などがあった。昭和40年、一部が平和町1~2丁目・岩神町1~4丁目となり、残余は同41年に大手町1~3丁目・千代田町1~5丁目となった。酒井家は旧前橋藩松平家家臣。権右衛門が初代藩主朝矩の代に召し抱えられ、藩主とともに白川、姫路、前橋と移ったようである。
伝来 酒井氏は元は神明町在住で、昭和14年に現住所に移転した。戦災で蔵は家と共に焼失したが、現在ある文書は移住の際に持ってきたものであろうとのこと。当館へ寄贈された。
数量 143
年代 寛保元年(1741)~大正3年(1914)2月
構造と内容 本文書群は、近世の松平大和守家家臣関係文書33点(23.1%)、近代文書2点(1.4%)、酒井家私的文書108点(75.5%)からなる。年代別では、近世期文書70点、明治期文書72点、大正期文書1点である。文書群の内容について、松平大和守家家臣関係文書では、「陸奥国白川御礼帳」「播磨国姫路御礼帳」「武州川越御礼式并分限帳」など分限帳類が多い。また、幕末期の「道中日記」「太政官日誌 第一~第十一」などが注目される。酒井家私的文書は、近世期文書が39点、明治期文書68点、大正期文書1点である。そのうち典籍・蔵書(版本)・地図類が103点で、残りは日本赤十字社関係文書などである。
検索手段 酒井保敏家文書目録、インターネット検索目録
関連資料 勝山敏子家所蔵文政4年前橋町絵図(P8701)、勝山敏子家文書(P8702)、八木健次家文書(P09702)、栗間良輔家文書(P0010)、松井家旧蔵文書(P01013)、『前橋市史』2・4など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 特になし
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