資料区分 古文書
請求番号 P0105
文書群名 摩庭進家文書
伝存地 前橋市五代町
出所 前橋市 摩庭進家
地名 勢多郡五代村/南勢多郡五代村/南勢多郡芳賀村大字五代村/勢多郡芳賀村大字五代村/前橋市五代町
旧支配 前橋藩領(平岩親吉、天正18年~)/前橋藩領(酒井雅楽頭、寛永12年~)/前橋藩領(松平大和守、寛延2年~)/前橋藩領(明和4年~武蔵国川越へ移り元治元年前橋へ帰城)/前橋県(明治4年6月~)/第一次群馬県(明治4年10月~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 勢多郡五代村名主・組頭など
歴史 赤城山南麓、東西を藤沢川とその支流が刻む輻射谷に挟まれた山麓台地上に位置する。地名の由来は、昔当地方に住んでいた者が赤城山へ薪取りに出かけたまま行方不明となり5代を経たのちに帰宅した、という伝承によるとされる。近世の村高は、「寛文郷帳」では341石余で、うち田287石1斗余・畑54石4斗余、「元禄郷帳」も同高。「天保郷帳」は466石、「旧高旧領」も同高。検地は、前橋藩主酒井氏により寛文10年(1670)に実施されたが、この時の検地帳は残っていない。元禄2年(1689)4月実施の検地(帳)によると、村高341石余、田畑・屋敷合計反別35町8反余、うち田16町8反余・畑18町9反余。天明2年(1782)「前橋藩領村々明細」によると、田20町5反余・畑30町9反余、家数70、男165人・女117人、馬32頭。天保7年(1836)の「前橋藩領内質屋一覧」では、村内に質屋が1軒記されている。また、天保11年の「村明細帳」によると、反別70町1反余のうち田20町5反余・畑49町2反余、その他御林4か所7町9反余。村役人は、名主1人・組頭3人、人数232人のうち男135人・女97人、家数76。畑地の作物は、粟・稗・大根などで、楮畑も3反余あった。田畑の肥料には馬草を用い、農間余業について男は馬草・薪取り、女は糸紡ぎ(夏)、木綿布織り(冬)とある。明治10年(1877)頃、主な物産は米40石、小麦20石、蛹83貫目、生糸20貫目であった。また民業については、男で桑を業とする者70戸・医術業1戸、養蚕・製糸業は男女230人であった。近世の摩庭家は代々長右衛門を襲名した。江戸~大正に活躍した喜一郎氏(寄託者である進氏の曾祖父)は、幅広く生糸商を営んでいたようである。
伝来 勢多郡五代村の名主をつとめた摩庭家に伝来した文書群。母屋前の蔵の中の木製箪笥に保管されてきた。
数量 520
年代 慶長4年(1599)~大正8年(1919)
構造と内容 当文書群を年代別に分類すると、近世以前の文書283点(全体の54.2%)、明治期の文書126点(同24.1%)、近代・大正期の文書18点(同3.5%)、干支・月日のみ記載の文書6点(同1.1%)、年次不詳文書89点(同17.1%、ほとんどが典籍類)となっている。また、勢多郡五代村の近世名主関係文書が102点(全体の19.5%)、勢多郡五代村(南勢多郡芳賀村大字五代村など)の近代文書が11点(同2.1%)、摩庭家私的文書が409点(同78.4%)である。近世名主文書の内容は、年貢割付状・水帳・名寄帳などの貢租関係文書50点、村行政関係文書13点、村況・戸口関係文書8点などである。摩庭家私的文書については、質地証文・金子借用証文・典籍類(歌舞伎・近代教科書類)・手習手本などが多い。なお、五代村の宗門人別帳(6~7冊程)と社地堂地書上帳、摩庭家私的文書のうち地所買取証・借用証文・抵当証文などは引き続き自宅で保管している。
検索手段 摩庭進家文書目録、インターネット検索目録
関連資料 (参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 虫損・水損文書は、取扱注意の旨を記した。「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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