資料区分 古文書
請求番号 P0204
文書群名 池田宏家文書
伝存地 前橋市本町
出所 前橋市本町 池田宏家
地名 前橋城下本町/群馬郡前橋町本町/東群馬郡前橋町本町/前橋市本町/前橋市本町1~3丁目
旧支配 前橋藩領(平岩親吉、天正18年~)/前橋藩領(酒井重忠、慶長6年~)/前橋藩領(松平朝矩、寛延2年~)/前橋県(明治4年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
歴史 前橋城下本町は、天正13年(1585)、北条氏直から木島助右衛門が領国内の連雀頭に任命され、前橋城下の町割りに着手したという。▼享保13年(1728)の検地帳や同17年の検地帳によると、面積4町5反余・屋敷79筆、1人で2筆の屋敷地を持つ者がおり、名請人数73人。▼地割りは、表間口が5間から10間、奥行きは20間から30間が大半を占める短冊形であった。▼当町は、沼田街道・江戸道の基点で、本陣・問屋や旅籠屋も多く、早くから町年寄2名が任命され、城下町全般の統制的役割を果たしてきた。▼天和3年(1683)町内上町・中町・下町の3か所で市が取り立てられた。市は連雀町の商人頭木島氏が統制にあたり、同氏は市神牛頭天王の神輿を守護していた。▼市への商品は、元禄年間頃から顕著となってきた生糸・繭が江戸後期にかけて次第に多くなり、本町の市は糸市として繁昌した。▼安政6年(1859)の横浜開港後は活況を呈し、前橋提糸は海外にまでその名を知られるほどであった(「直泰夜話」)。▼「松平藩日記」によると、宝暦2年(1752)、米穀や沼田煙草の営業出願などが出されており、江戸中期以降、市日以外の商品取引が始まった。▼家数は、安永9年(1780)11月の大火記録(「松平藩日記」)に、総家数105の内焼失家屋93、その内訳家主81・店借12・土蔵5とある。▼寛政2年(1790)の家数人別書上帳(前橋市立図書館所蔵文書)では、組数9・家数95・竈数95と減少している。その理由は、度重なる大火、近隣の才川村・細ヶ沢町の市立て、明和4年(1767)城主松平氏の川越移城などがあげられる。▼江戸末期、生糸取引が盛んになると、町も活況を呈した。嘉永7年(1854)の五人組帳(「松平藩日記」)によると、組数9・家数は家主71・借家41・組外7・町年寄2・問屋1・名主1の計123軒、人数は男251・女253、下男20・下女2となり、流入人口による借家が全体の3分の1を占めた。▼本町の諸商人については、慶応4年(1868)、前橋城下合計106人の米穀商人中12人、質屋2軒・酒商5人であり、旅宿は本陣松井権四郎・島田新兵衛のほか、本町下宿久仁屋・伊勢屋・白井屋・油屋・岩附屋六兵衛(岩六)があった。▼八田屋松井権四郎は、宿屋・本陣・呉服商として藩御用達であった。また、幕末期の前橋城再築に当たっては、本町出身の勝山源三郎が585両を献金した(「松平藩日記」)。
伝来 2020年度に寄贈された。
数量 20
年代 宝暦12年(1762)~慶応2年(1866)
構造と内容 主に群馬郡前橋町関係の近世町方文書である。▼連雀町・前代田村・紅雲分村などの証文類が多い。▼年代別では、近世以前と思われる文書が全20点である。▼文書群の内容・構造は、村行政関係1点、村況・戸口関係1点、金融関係(土地売買・質地小作証文、金子借用証文)15点(78.9%)、家計関係2点などである。
検索手段 池田宏家文書目録、インターネット検索目録
関連資料 勝山敏子家所蔵文政4年前橋町絵図(P8701)、勝山敏子家文書(P8702)、松井家旧蔵文書(P01013)、ほかに『前橋市史』など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 特になし
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