資料区分 古文書
請求番号 P00601
文書群名 北爪行文家文書
伝存地 前橋市鼻毛石町(旧宮城村)
出所 前橋市(旧宮城村) 北爪行文家(北爪守雄家文書)
地名 勢多郡鼻毛石村(近世~)/南勢多郡鼻毛石村(明治11年~)/ 南勢多郡宮城村大字鼻毛石(明治22年町村制~)/勢多郡宮城村大字鼻毛石(明治29年~)/前橋市鼻毛石町(平成16年~現在)
旧支配 近世初め大胡藩領/元和2年(1616)前橋藩領/明和6年(1769)幕府領/幕末期の改革組合村は大間々町寄場組合/慶応4年(1868)前橋藩領/明治4年(1871)前橋県、同年第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年第二次群馬県
役職等 鼻毛石村名主、鼻毛石村村会議員(明治17年9月~、源平)、御嶽教寛英講社長(源平)
歴史 【中世 鼻毛石】戦国期に見える地名。勢多郡女淵郷のうち。▼天正18(1590)年2月21日の北条家朱印状(女渕、女渕給田安堵状写、№102)によれば、当地をはじめ苗ヶ島・友成・深津で合わせて142貫文の給地が北爪大蔵ら25名の地侍に宛行われている。宛行われた貫高は、3貫文から10貫文である。▼【近世 鼻毛石村】江戸期~明治22年の村名。勢多郡のうち。当北爪家文書によると、永禄~天正年間頃は、女淵はなけ石、とある。村高は、「寛文郷帳」261石余のうち、田方204石余・畑方56石余、「元禄郷帳」同高、「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」ともに661石余。約150年間に村高が、2.6倍に増えている。これは、盛んな新田開発、特に赤城山麓の畑地の開発によるものである。▼明和7(1770)年、畑として検地帳に記載された土地が林となって実際の収穫がないのに、そのまま畑として課税されていることに対し、領主に年貢減免を願い出ている。同願書によると、この土地から柴・薪・下草・落葉などを集め、前橋城下で売り払い年貢代金を調達していたことがわかる。同年の家数101軒、人数408人、馬30疋(№137)。
伝来 当館へ寄贈された。
数量 415
年代 天正8(1580)年2月27日 ~ 昭和47(1912)年11月18日
構造と内容 本文書群は、近世文書165点(全文書の39.8%)、近現代文書241点(同の58.1%)、年次不詳文書9点(同2.1%)、合計415点からなる。近世文書は、勢多郡鼻毛石村の村方文書である。▼内容について、天正期と思われる史料が4点(№51、№52、№102、№170)あるが、いずれも原本ではなく写しである。(同家所蔵の中世文書5点の原本は、下記の県史複製資料で閲覧可能)。▼元禄5年から元禄7年にかけての三夜沢村赤城神社社人と鼻毛石村・柏倉村・苗ヶ嶋村との境争論関係文書がまとまっている(№31、№42、№55、№82、№83、№141、№143)。明和7年の「石永悪地下々畑・永下々畑林 地押改帳」や「米悪地下々畑・下々畑・永悪地下々畑 新田水帳」など(№136~№139)もある。▼宗門改帳は、文政8年(№3)と安政7年(№4-1)のものがあり、いずれも赤城寺・快乗院の檀家のものである。絵図類は、〔鼻毛石村絵図〕(明治4年7月、№133)、〔鼻毛石村絵図〕(明治期、№134)、〔鼻毛石村耕作地絵図〕(明治期、№150)、〔鼻毛石村耕作地絵図綴〕(明治期、151)などがある。御嶽山信仰に関する文書は、幕末の万延2年から明治期末にかけて多数ある。特に、明治期北爪家当主の源平氏は、地域の中心で明治39年1月に御嶽教中教正に補任されている(№238)。
検索手段 北爪行文家文書目録、インターネット検索目録
関連資料 同家の県史収集複製資料として「北爪守雄家文書」(請求番号H15-1中世、H15-6-10近世)、ほかに同地域の複製資料として「北爪・東宮・大崎家持廻り文書」「奈良原安夫家文書」「宮城村役場所蔵文書」等
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は、本目録から除外した。
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