資料区分 古文書
請求番号 P0603
文書群名 浦野安孫家文書
伝存地 吾妻郡長野原町林
出所 吾妻郡長野原町 浦野安孫家
地名 吾妻郡長野原町/吾妻郡林村/吾妻郡長野原町林
旧支配 海野幸光(永禄・元亀年間)/沼田藩(真田氏、天正~元和元年)/幕府領(天和元年~)/岩鼻県(明治元年~)/群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/群馬県(明治9年~)
役職等 諏訪社別当大乗院/本山派准年行事職/村社王城山神社社掌/林村副戸長など
歴史 永禄・元亀年間には海野幸光が領有した。天正年間は武田氏家臣である真田氏の支配地となる。近世に入っても沼田藩真田氏の支配となるが、天和元年(1681)に改易となり、以後幕府領。村高は貞享の検地帳では田方29石余(3町5反余)畑方166石余(30町余)である。▼浦野家の先祖は、近世期本山派修験年行事職として大乗院を名乗っていた。大乗院は吾妻郡内に配下の山伏及び霞村として28ヶ村を持つ修験家であった。▼また林村の諏訪社の別当職も務めた。▼浦野一族の墓地は、通称「御塚」と呼ばれる長野原町大字林字東原にあり、「林の御塚」は村信法印の神域で、長野原町指定史跡となっている。▼本山修験宗の総本山である聖護院は、もと天台宗寺門派の大本山で、三門跡の1つ。室町時代の門跡道興准后は全国の熊野系山伏を歴訪し(群馬郡西国分村の大蔵坊に10日余り宿泊)、本山派と呼ばれる天台系修験教団の組織を確立した。その組織は聖護院を本山とし、京都にある住心院などの院家を中核とし、地方の修験や熊野先達などを通して全国の修験者を統轄した。
数量 117
年代 天正元年(1573)~昭和19年(1944)
構造と内容 今回は約4000点ある浦野家文書のうち121点を公開する。約10点の中世文書を含む。大別すると和田山極楽院関係と浦野家(大乗院)の文書に大別できる。▼極楽院関係は6点で、室町15代将軍足利義昭の書状(№4-1、4-2)や滝川一益(№2)の「上野国年行事職」・北条氏邦の「寺領安堵」(№3)などである。▼浦野家(大乗院)関係は4点。また近世初期には諏訪免8貫400文を安堵される書状(№12)も発給されている。▼近世文書は約50点で、林村関係と大乗院関係に区別できる。大乗院関係はやはり「年行事職」に関する資料が多く、本山修験の本山である江戸の快長院や京都の住心院とやりとりが見られる。▼林村関係では貞享3年の「上野国吾妻郡林村御検地水帳」(№80)が挙げられる。▼近現代文書は約60点で、特に諏訪神社(王城山神社)に関する資料が多い。明治初期に作成された境内絵図などが残る。
検索手段 浦野安孫家文書目録、インターネット検索目録
関連資料 同じ大乗院の文書として浦野恒彦家文書(P8907)。当館紀要『双文28』「中世~近世初期の浦野安孫家文書について」など。▼本山派修験関連文書として、内山幹雄家文書(大蔵坊、PF0001)、長見寺文書(P0006)、栗崎智康家文書(日野坊、P8207)、小幡宰太郎家文書(寶常院、P0503)、長尾貞治家文書(東覚院、P01902)、上杉うづ家文書(三宝院鷹巣寺、H10-24-1近世)、「吉井町郷土資料館文書9(伊藤幸吉家文書)」(矢田坊、H42-1-1(9)近世)など。▼『山伏の地方史 -群馬の修験道-』(みやま文庫)、「上野国本山派山伏名所記」(前橋市立図書館蔵、『前橋市史』6)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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