資料区分 古文書
請求番号 P0704
文書群名 松村孝志家文書
伝存地 前橋市東大室町
出所 前橋市 松村孝志家
地名 勢多郡東大室村/南勢多郡東大室村/南勢多郡荒砥村大字東大室村/勢多郡城南村大字東大室/前橋市東大室町
旧支配 大胡西領(牧野常陸之助/~元和2年)/前橋藩領(酒井雅楽頭、元和3年~)/前橋藩領(松平大和守、寛延3年~)/幕府領(代官前沢藤重郎支配、明和5年~天明5年)/前橋藩領(川越城主松平大和守、天明6年~文政年度頃)/幕府領(岩鼻代官林部善太左衛門支配)・旗本領(大嶋雲平、天保15年~)/岩槻藩領(弘化2年)・前橋藩領(松平大和守、慶応2年)/岩槻県・前橋県(明治4年7月~)/群馬県(明治4年10月~)/熊谷県(明治6年~)/群馬県(明治9年~)
役職等 東大室村名主・組頭など
歴史 赤城山南麓の末端に位置する。北東部から東部にかけて多田山の丘陵が南北に走り、他は北から南にかけてなだらかな傾斜地となっている。西部を神沢川、多田山の西を桂川が南流する。大室の地名の由来は、古墳・大穴室などが多いことによる説と、御諸別命の御諸が大室と転訛したとする説がある。また、東の多田山丘陵と西の古墳群の丘陵に囲まれた地形は、室生や御室山のように古くから人が住み、神を祀ってきた地とする説もある。元は西大室村と一村で、「寛文郷帳」には大室村の村名が記載されている。近世の村高は、「元禄郷帳」446石、「天保郷帳」558石余、「旧高旧領」も同高。なお寛保2年と延享3年の村高は546石。安永10年の田畑年貢・小物成元帳によると、村高558石余・反別91町余、年貢は米224石余・永58貫余、小物成は糠・藁・萱・縄・筵・御林下草代・鉄炮役などがある。天明2年の人数437人のうち男237人・女200人、家数114軒、馬22匹。幕末の改革組合村では、二之宮寄場組合に属し、高558石余、家数103軒。「郡村誌」によると、明治初期の物産は「生糸其質悪ク、年分出来高前橋町・伊勢崎町・大間々町運送シテ捌ク」とある。また民業については、「男渾テ農桑ヲ業トス、女養蚕木綿糸等稼ク」とある。寺院は、曹洞宗赤城山最善寺がある。末寺として、竜昌寺と安竜寺があったが、いずれも明治9年廃寺となった。明治41年、御霊神社・稲荷神社・雷電神社・多田神社・五料稲荷神社などを合祀して大室神社と改称し、大正3年字上清竜の現在地に移転した。寺子屋教育は、嘉永年間から明治6年の間、最善寺14世功円得成大和尚と15世天瑞祥竜大和尚が子弟に習字・読書などを教えていた。近世の松村家は、清兵衛(文政~天保期)・新五右衛門(天保~幕末期)などが村役人を務めたようである。また、新五右衛門は、相続講の会所も務めた。次の当主勝次郎(勝二郎)は、戸長役場時代、第八大区四小区東大室村の副戸長を務めた。続く明治・大正期の当主長三郎は、常設委員などを務めた。
数量 723
年代 慶長3年(1598)~昭和4年(1929)
構造と内容 当文書群を年代別に分類すると、近世以前の文書414点(全体の57.3%)、明治期の文書260点(同35.9%)、近代・大正期の文書21点(同2.9%)、昭和期の文書2点(同0.3%)、干支・月日のみ記載の文書1点(同0.1%)、年次不詳文書25点(同3.5%)となっている。また、勢多郡東大室村の近世名主関係文書が333点(全体の46.1%)、勢多郡東大室村(南勢多郡荒砥村大字東大室村など)の近代文書が216点(同29.8%)、松村家私的文書が174点(同24.1%)である。近世名主文書の内容は、村行政30点、村況・戸口9点、土地8点、貢租44点、金融225点などである。松村家私的文書は、家・冠婚葬祭、家計・金銭勘定等・金子借用証文、家業・紺屋、典籍・手習いなどが多い。
検索手段 松村孝志家文書目録、インターネット検索目録
関連資料 (参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 虫損・水損文書は、取扱注意の旨を記した。
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